給食、共食、ともに食べること、ともに過ごすこと--『おいしい給食 Road to イカメシ』
なんやかんやで、劇場版『おいしい給食』ももう第3弾。
前作の劇場版にて「卒業」が宣言されたかと思いきや、昨年のテレビ版Season 3放送からの劇場版第3弾も決定というもはや人気作のムーブをしている。
「おいしい給食当番」というサポーター制度によってそれが可能となっているあたり、本シリーズの人気が窺い知れる。
テーマの特殊性によって、そろそろネタ切れになってきている節もあるのではないかというのが正直なところ。
しかし他方で、国民のほとんとが経験している給食・学校生活がテーマだからこそ、作品の作り方如何によってどのようなストーリーをも練りだすことができるという利点もある。
そのような制約と拡大可能性との間をうまくバランスを取りながら、よくやっているよなあという印象がやはり強い。
今回の劇場版も、第2弾と大筋は同じようなものを採用しながら、転回の部分でうまく差別点を作り出している。
そういうことで、観に行ってきた劇場最新作のレビュー。
全体の雑観
ひとことで言ってしまえば、昭和末期・平成初期の学校・ムラ社会の悪いところが良くも悪くも詰め込まれている作品。
全体主義、強制居残り、教員による統制、政治家のパフォーマンスとしての教育の利用、教育への政治介入、同質的なムラ政治、不健全な市民コミュニケーション、などが随所に現れる。
これは、作中で「敵」ポジションとなる者たちにも、「主人公」ポジションである教師・甘利田にも、共通して描かれているもの。
そういう意味で言えば、とても真摯に当時の教育的問題をまなざしている作品とも言えようか。
「無敵」な給食/「無敵」になるための給食
基本的なプロットとしては、劇場版第2弾とそれほど大きくは違わない。
給食を愛する教師・甘利田が赴任する学校に行政的危機が起こり、それを生徒たちが主体的に解決しようとしていく物語。
ただ、今回作品が前作と比べて最も違うところが、最終的には「敵」と「味方」との和解がもたらされる(ように見える)ところだろうか。
その道程に至るためのキーワードが、給食大好き少年・粒来ケンによって物語中盤に唱えられる、「無敵」という語。
粒来少年曰く「無敵」とは、誰にも負けないほどの孤高な強さではなく、誰もを仲間にすることで「敵」をなくすこと、だという。
このような信念によってクラスメート、教員、政治家などが動かされることによって、作品としては大団円を迎える(ように見える)。
この点は、劇場版第2弾にて初代給食好き少年・神野ゴウがもたらした変革よりもさらに範囲が広いものとなっている。
ただしこのような結末は、穿った見方をすれば、新たな全体主義の現れとも言える。
すべての人を「仲間」としようとして境界線を引けば引くほど、そこから排除される存在は少なからず生まれてしまう。
全体主義に抗して
しかしそれを脱するためのヒントは、すでに作中に示されていると言ってよい。大きくは二つ。
一つは、テレビ版Season 3からすでに示唆されていた、学芸会で披露された『ホワイトマン』という劇中劇の設定。
他人に流されず、一匹狼のように生きているホワイトマン。しかし彼も実際は、劇中で弁護士が言うように、「社会の中で生きていた」のである。
いくら我が強い個人であっても、他者との関わりに興味が薄くとも、人間が社会的な生き物である限り、人は他者や社会との相互作用の中で生きることを避けられない(もちろんこれは、孤独に苛まれる人がいないというわけではない)。
「個人」という一貫した「主体」を確立しつつも、ゆるやかに他者や社会とつながりつつ、その「主体」を変革させながら生きていくことが可能なのだということが示される。
そして二つ目に、上記のような「主体」を形成していく実践として給食=共食=ともに食べることが、改めて作品全体を貫くテーマとして強調される。
参加者それぞれが思い思いに給食を好きなように食べる場所・時間が、学校内の給食なのだ。
そこでは、あらゆる者が(ときには、学校外からの訪問者も)歓待され、あらゆるあり方が許容される。
元められる秩序はたった二つ。各自が給食を最大限楽しむことと、他者の食事を邪魔しないこと、である。この二つは決して独立しているのではなく、二つの達成が同時に目指されていく。
だからこそ劇中で示されていたように、給食(ひいては学校という時空間)を保障するための教育的手立ては、どれだけされても足りないことはない。
教育から見る『おいしい給食』
ちなみに、上記のような問題提起は、たんに過去の学校に対する批判として提起されているのみでもないだろう。
机の配置をグループの形にせず前に向けたまま食べているシーンは、新型コロナウイルス感染症対策で学校現場がてんてこ舞いになっていた時期の状況を喚起してくる。
いまだに給食、そして学校は、児童生徒が真に主体的に育つための環境醸成をすることができていないのだ。
その要因は社会的な出来事であったり、政治的な思惑であったり、または教育界の内側からもたらされるものであったりする。
過去の教育現場に起こった問題を、現代的な課題と結びつけて考える余地をも残している作品でもある。
今後の期待
それにしても、冒頭に示したようにそもそも長編の映画として作るには難しいかつネタ切れになりかねないテーマにもかかわらず本当によく続いている作品。
劇中の時間軸としては、もう少ししたら各地の給食センターが地域の特色を反映させたメニューを全面に押し出してくる時期なので、甘利田が各地の給食メニューを堪能するようなシーズンにも期待大。
『課長島耕作』的に『教育委員甘利田幸夫』『児童生徒課甘利田幸夫』みたいなスピンオフがあってもいいよね。