あの時代そもそもゲームは「見るもの」だった
今でこそ「世界におけるコンシューマーゲーム市場がふんだらら」「ハイエンド市場がほにゃららら」などと賢しらに語られる時代であるが、そもそもそういうのは後から作られていったものであってあの当時はそういうものは全く存在していなかった。
金持ちの物好きがこねくり回すマイコン、不良が入り浸ったり営業が100円玉を積み上げていたゲーセン・喫茶店のアーケードゲーム、そしておもちゃとしてのゲームである。
ゲーム黎明期の子供は今の6ポケッツどころか一学年46人のクラスが15ぐらいあったという過当競争にさらされており、兄弟もそこそこ多いため兄弟間ですらお手伝いのおこずかいの取得争いが生じていたぐらいただただひたすら金がない。
あっても当たり付きのガムなどに注ぎ込み、どれだけでかいフーセンガムのフーセンを作れるかにチャレンジしていたど阿呆がほとんどである。
賢いとされる女子はかわいいマウントをとるためキャラクターのついたノートやメモ帳に注ぎ込んでいた。そもそもゲームなんぞ鼻も引っ掛けなかった。
クリスマスは「かような風習は家に無い」とスルーされ、お年玉と誕生日ぐらいしかチャンスはなかったのである。
なので、今でこそ「ゲームはプレイしてなんぼ」「YouTubeでプレイ動画を見て楽しいの?」という意見が出るが、あの時代の子供は「デパートの上にあったマイコンコーナーで大人の常連がプレイしている」「ちょっとした宴会場があるようなレストランの片隅に置かれているテーブル筐体ゲームのデモ」「金持ちの友達が持ってたおもちゃ(自分が遊ぶだけで貸してくれない)」「駄菓子屋で10円3分でできる行列が出来ているゲーム機」なんぞをひたすらに後ろからぼーっと眺めている時間の方がはるかに長く、「ゲームは見るもの」だった。
そのため、時計と言い張れるゲーム&ウォッチが出た時子供達は舞い踊り床に転がり泣き喚き親に土下座をしたのである。ゲームをせずともゲームをした気分になれて、しかもゲームは面白い、プレイできるゲームが手元にやってきた!
この流れはずっと続き、ゲームの出来る電卓やゲームの出来る筆箱などに継承されて「見るゲーム」から「やるゲーム」に昇格していくのであった。そして、満を持してゲームボーイが横井軍平によって世に放たれるのである。