「小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』戸田響子『煮汁』合同読書会」に参加してきました。
私なんかが参加してよろしいのでしょうか、と思いつつ、小坂井さんと戸田さんのことが大好きなのは大前提として、辻聡之さんがとりまとめて荻原裕幸さんが司会と知って、あああこれはなんとしても行きたい!と参加表明してしまったはいいけれども、講演会じゃなかった、読書会ってなにするの??まさか意見の交換とかするの??と青ざめながらの参加でした。
参加するにあたり、それぞれの歌集から好きな短歌を1首お伝えすることになっていました。どちらの歌集にも好きな短歌しか入っていないので、それはそれは悩みました。
私の基準は、私自身が以前取り上げなかった中から選ぶ、でした。
まずは小坂井さん。私の過去記事です。
さらにあとに書いたnoteです。
これ以外から選びたかった。
悩みに悩んで、私が今回選んだのはこの歌です。
これ、2通りの読み方があると思うのですよ。それを聞いてみたいような聞いてみたくないような気がしてその場で聞くか迷ったのですが、当てられなかったのをいいことに挙手もしませんでした。
「これだ」のあとの句点。そこで切れる。一呼吸置く。なにが?と読者は思う。そこで「星」。降ってきた「星」。しかも「拳」の代わりの「星」。
拳じゃなくて星が降ったなら喜ばしくないの?それがどうして「容赦ない」につながるんだろう、星の方がいいよね?と思って、どういう意味だろう、と考えてみました。
1つは漫画的な星。衝撃を受けたら目の前に星、的な。拳も目に入らないくらいの衝撃。そのくらい容赦ない何か。
もう1つは、「拳ではなく」「星」で「容赦ない」に続くことから、怒られたくはないけれど、本当は拳が欲しかった?と考えると、いつも拳を降らせていた人が星になってる?厳しかった人が死んじゃった?死んじゃったのはこの人??という読み。
深読みしすぎでしょうか。でしょうね。
でもこれ連作の「スナック棺」の中に入ってるんですよ。怖くないですか?
次は戸田さん。
まずは私の過去記事です。
この中にないものを選びたかったのですが、
いただいた資料に入っていました。普通は桜が咲く間を夢だと思いがちなのに、咲いていない間が夢だというのが新鮮だと思った、ということと、「あわい」は「淡い」も連想させるために使っているのではないか、ということをどこかに私自身が書いた気がするのですが、見つけられませんでした。
こちらの歌は、おそらく戸田さんのことを、凄い人だ、と私が認識した最初の歌です。ツイッターで流れて来たときの衝撃。
私が最初にこちらの歌について触れたとき、「納まる」と、傘が意志を持っているかのように書かれているのが衝撃だった、というようなことを書いたと思います。「納める」ではなく「納まる」だからいい、最初の「鳥」とつながっている、と。
この歌も、資料の中に入っていました。
荻原さんが、「バサバサと畳んでいるのでしょうね。傘をしまう几帳面さに対して、少しがさつなかんじがするのが面白いですね。」というようなことをおっしゃっていたと思います。(違っていたらごめんなさい。)
私は最初に読んだとき、風が強い中で傘を畳もうと奮闘する、または格闘しているというほうが的確かもしれない人の姿を想像しました。畳まないと傘を持ち歩くのも大変な風。かといって折りたたみ傘を使うくらいなので台風まではいかないくらいの。ああ、よかった無事に納まって、と、まるでその場に居合わせたかのように映像が目に浮かびました。
ということで、好きな歌を挙げるときりがないのですが、私が今回選んだ歌はこちらでした。
その場で発表(?)したのはこんな内容でした。
荻原さんが、「いたずらっこのような子が、何もないのによく『あっ!』と空を指すことってありますよね。はめられたのかもしれませんよね。そういう可能性もありますよね。」とおっしゃって、確かに!と思いました。どちらの可能性も、ある。
そう思って、帰り道に、その可能性を考えなかったのはなぜだろう、とずっと考えていたのですが、「子供ら」が「指していた」なので、何かはそこにあったのだろうな、と思ったのだと思いました。「指していた」は過去完了でもあるけれど、そこに時間の経過を感じます。はめるために一瞬空を指したなら「指した空」ではないかと。「子供ら」に関しても、だれかをはめるのにそんなタイミングよく何人もで空は指さないかな、と。もしはめるつもりであったなら(字数のことは考えず)「とある子が」「指した」なのではないかと。
また、うまくまとまらないまま意見を言ってしまったのですが、子供たちに実際に何かが見えていたとして、それは子供にしか見えないものかもしれなくて、だとしたら、ただ見えていたものが少しの時間差で見えなくなっていただけではなくて(虹が消えたとか飛行機が通り過ぎたとか)、大人の「私」にはそれが見えない、と考えている可能性もあるな、とも思いました。
こうやって、どれが正解かわからないけれどいくつもの読みができて、読者に想像させてくれる余地のあるところが、戸田さんの短歌を好きな理由のひとつです。
会場をあとにしてから思ったけれど、今のオバチャンとなった私が知っている子たちがそうしている場面に遭遇したら、「え?なになに?何が見えたの??」とか聞いてしまいそう、と思いました。(ウザッ。)
そうやって聞けない関係の子供、つまり通りがかりの子供らと、そういうことを聞いてしまわない人との距離感もいいな、と考えて、つくづく私の人生に詩性はないわ、と思ったのでした。
まとめに入ります。
こんな私までも読書会に温かく迎え入れてくださってありがとうございました。
他の方ともお話ししたのですが、読むたびに好きな歌が変わります。どなたかもおっしゃっていましたが、参加された皆さんの好きな歌がほぼほぼ重ならなかったのも、年齢や性別、置かれている状況の違うそれぞれの心に響く、系統の違ういい歌がたくさん入っている証拠だと思います。
おふたりとも、何度も読みたくなる歌集をありがとうございました。
そして好きな歌が重ならない皆さんの、好きな歌に対する読みや思い、作者であるおふたりの言葉を直接拝聴できて、とても貴重な時間を過ごすことができました。荻原さん、辻さん、小坂井さん、戸田さん、そして参加された皆さん、ありがとうございました。
最後の写真撮影。
掲載許可をいただいたので、載せておきます。
書き忘れました。
開催されたのは、木曜日(平和園の定休日)の文化の日。開催するしかない読書会でしたよね。