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「じゃがいも」のお寺話44 奈良時代の僧侶(道鏡)

道鏡(700年〜772年)
聖武天皇は幼い男子の子を病気で亡くしました。子供は娘である安倍内親王(孝謙天皇)1人になり史上唯一の女性皇太子になりました。しかし安倍内親王(孝謙天皇)には子供がなく以後の継承者が決まらないため後継者問題として孝謙天皇に変わる天皇を求める動きが起こります。
そんな中で聖武天皇が譲位して749年に孝謙天皇が即位します。(在位: 749年~758年)
756年父である聖武天皇が亡くなり、その後に体調崩した母親である光明皇太后に仕えるために譲位して「太上天皇(上皇)」になり淳仁天皇が即位します。(在位: 758年~764年)

761年病気を患った孝謙上皇を看病したのが道鏡です。孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになります。淳仁天皇は孝謙上皇の道鏡への寵愛に反対して意見を言うようになり2人の関係性は悪くなって行きました。
道鏡は孝謙上皇の後ろ盾によって政治に関与するようになります。道鏡の身内や血縁者を次々と高い位に任命して行きます。道鏡の弟は大納言になっています。
孝謙上皇と淳仁天皇の関係は益々悪くなる中で、孝謙上皇は、淳仁天皇と関係を築いていた藤原仲麻呂が軍事の準備をしていることを察しました。藤原仲麻呂は朝敵とされ最終的には殺害されます。
淳仁天皇の位を剥奪して孝謙上皇は孝謙天皇に復帰しました。重祚(ちょうそ)したので後世では称徳天皇と呼ばれます。称徳天皇は結婚してなく子供がいないので後継者問題は継続します。そんな中で道鏡の「宇佐八幡宮神託事件」は起こるべくして起きたのかも知れません。
大宰主神(だざいのかんづかさ)という大宰府を統括する位の高い神職から「道鏡が天皇になれば天下は泰平と宇佐八幡宮の神からお言葉があった」と称徳天皇に伝わります。実際に称徳天皇は道鏡を次の天皇にしてもよいとも考えていたようですが、天皇の弟の和気清麻呂が宇佐八幡宮に出向いて神の言葉は嘘だと判断したため道鏡は話を作って騙したことになり、天皇になることはありませんでした。
770年称徳天皇が亡くなると後ろ盾がなくなり道鏡は下野国の薬師寺へ左遷され774年左遷の地で亡くなります。

現代の歴史の専門家の間でも道鏡と孝謙天皇の一連の歴史は様々な解釈や意見があるようです。「宇佐八幡宮神託事件」は道鏡を悪人にするための後付けの話ではないか、本当に道鏡は天皇になりたいと思ったのか。
日本三悪人と言って、道鏡、平将門、足利尊氏の3人は日本史上の悪人とされていました。
明治から戦前までの天皇が現人神とされた時代の価値観で天皇家に反逆した代表的な3人という認識かと思います。現代ではそこまでの悪人の評価はないとは思いますが、そうした事実がありました。

天皇家の家系図を見ると分かるのですが、48代の称徳天皇で天武天皇からの血筋が途絶えて、49代の光仁天皇は天智天皇の血筋の天皇になります。
道鏡のような政治に強く関与する僧侶が増えたこと、律令制の中で官寺の体制が築かれたこと、壬申の乱から天武天皇と天智天皇の血筋はあまり仲が良くないことなど条件が重なります。
そうした時代の流れの中で、光仁天皇の息子の50代桓武天皇は「国家仏教」と呼ばれる奈良の仏教から離れたいと考えました。数多くあるお寺を平城京から遠ざけるのは無理があるので、平城京から京都への遷都を決めることになります。

京都への遷都が日本仏教界の最強のツートップである最澄、空海を生む流れになります。遷都がなかったら「国家仏教」と呼ばれる体制が急激には変わらなかったでしょう。
最澄も空海も天台宗も真言宗も比叡山も高野山もなかったのではないでしょうか。

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