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「じゃがいも」のお寺話49 定朝

桓武天皇が794年に平安京に都を遷都してから1185年に源義経が壇ノ浦で勝利し平家が滅び、源頼朝が鎌倉に幕府を興すまでの約390年間もしくは784年に平城宮から長岡京に都を遷都してからの約400年間を平安時代と呼びます。およそ9世紀〜12世紀。
平安時代は天皇を政治の中心とする体制であり、公家の時代であり、藤原家、平家が政治を仕切った時代です。

仏教では、お釈迦様が説いた教えが正しく伝わり修行して悟りを開く僧侶がいる「正法」の時代が過ぎると、真摯に修行をせず悟りを開くまで至らない僧侶ばかりになる「像法」の時代になり、その後にはお釈迦様の教えに沿った修行が全く行われない「末法」という時代が来ると考えられています。正法・像法・末法を三時(さんじ)と呼びます。
日本固有のものではなく、時間のとらえ方はまちまちでもインドや中国でも同じように考えられているようです。
お釈迦様が涅槃に入ってから相当な時間が経った末法は、お釈迦様の教えである法や戒律の効果や価値が失われる時代とされます。

日本では1052年が末法の元年、末法の始まりの年とされるようです。末法が始まり、祟りや飢饉や災難が起き、争いが絶えない世の中になると考えるようになります。そのため天皇や公家がお寺を建立し仏像を作り功徳を得ようとしたとされます。末法だけが理由ではないとの説明も見ますが、平安時代に多くの寺院が建立され仏像が作られた理由の一つにはなるのかと思います。

平等院は藤原道長の別荘であった建物を道長の息子で関白の藤原頼通が1052年に寺院にし、1053年には阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立しました。藤原氏の華やかな時代を知る唯一の建物で、池と阿弥陀仏とで極楽浄土を表していると言われます。末法と全く関係ないとは考えにくいタイミングの建立です。
鳳凰堂という名称は江戸時代初期から呼ばれるようになり、創建当時は阿弥陀堂や御堂と呼ばれていたようです。

この平等院鳳凰堂の本尊である阿弥陀如来坐像は定朝という日本の仏像製作に革命を起こした有名な仏師の作と言われ、定朝作と確定できる現存唯一の仏像と言われています。

飛鳥時代から仏像は作られていて仏像を専門に作る仏師もいました。例えば、鞍作止利(止利仏師)は日本最古と言われる飛鳥大仏や法隆寺金堂釈迦三尊像を製作した仏師と言われます。
定朝も仏師ではありますが、単に職人なだけでなく僧侶として「法橋上人位」という高い位を仏師で初めて授かっています。その点が定朝以前の仏師とは違います。
藤原氏全盛期に仏師にも位を与え、高い位の仏師に仏像作成を依頼することで仏像自体の価値を上げ、価値の高い仏像の製作依頼ができる自分の価値も上がることになり一般との差別化を図ったようです。平安時代の公家文化らしいなぁと思います。
格に差はあっても定朝以降の定朝の弟子にあたる仏師も何らかの僧侶の位を授かるようになり、位を与えられた仏師の集団ができることになります。職人としての仏師は名前など残らない場合がほとんどでしたが定朝以降の仏師は職人というよりアーティストとして名前が残るようにもなったと言えそうです。
定朝が高い位を得た最初の仏師なので定朝以降の仏師には系図ができ、院派、円派、慶派などの仏師の集団ができることになります。

定朝は「定朝様」と呼ばれる造形様式を作ったと言われます。柔らかな曲面、彫りの浅い衣紋など柔らかい雰囲気の仏像を作り平安時代の公家から高い評価を得ています。仏像は製作された時代により特徴があり、飛鳥、白鳳、平安前期、平安後期、鎌倉…(室町、南北朝)江戸、くらいの分けられ方をしますが、平安後期の仏像の特徴は「定朝様」と言えそうです。
仏像をパーツに分けて作りプラモデルや積み木のようにパーツをくっつけて作る「寄木作り」を確立したのも定朝と言われています。寄木作りより前の胴体をほぼ1本の木で作る「一木造り」では大きな仏像を作るには限界がありますが寄木作りなら大きな仏像を作れるようになります。また、分業作業が可能になり、運びやすくもなります。製作効率がアップし工程が短縮できるようになりました。定朝が作り出した寄木の技法が取り入れられているか否かで製作時期の判断の一つになります。

正に仏像作成に革命が起きたと思います。時代が求めた仏師の誕生と思ってしまいます。

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