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「じゃがいも」のお寺話18 初転法輪

◆四諦(もしくは四聖諦)
「諦」はあきらめるという意味だと思います。根幹となるお釈迦様の教えはどこかあきらめる、手放すというニュアンスがあるので違和感も少なく感動を覚えます。

四諦(したい)と書かれたら4つのあきらめるべき事項と読めますが、お釈迦様の教えとしてはあきらめるのではなく仏教で考える根本的な4つの真理と説明されます。「諦」は本質を明らかにする、本質を見抜く、という意味の漢字で「明」が近いようです。「あきらか」という元の意味があった「諦」が「あきらめ」という意味に転じていったのでしょうか。分かりません…

苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つを四諦と呼びます。大乗仏教では宗派によって捉え方や数が変わることもあるようですが、お釈迦様が初転法輪で説いたとされるのは四諦です。
仏教には因果応報という言葉があります。起きていることには必ず原因がある。原因があるから、その結果になる。という説明ですが、悪いおこないは悪い結果を生み、良いおこないは良い結果を生むという教えとして使われる言葉かと思います。
苦諦は結果で集諦が原因、滅諦は結果で道諦が原因の因果の関係にあると説明されます。

•苦諦(くたい)、集諦(じったい)
仏教には一切皆苦という言葉がありますが、世の中の一切は苦であると考えを一切皆苦といい一切皆苦は仏教ではこの世の真理の一つと考えて苦諦と呼ぶ。
という説明で合っている気がします。一切皆苦の内訳が四苦八苦でしょうか。

四苦八苦は、生•老•病•死の四苦と、①愛別離苦(あいべつりく)(好きな人との別れ)、②怨憎会苦(おんぞうえく)(嫌いな人との出会い)、③求不得苦(ぐふとっく)(欲しいものは手に入らない)、④五蘊盛苦(ごうんじょうく)(自分の身体や心も思い通りにならない)の四苦で四苦八苦です。
世の中は四苦八苦から逃れられない。人生は思い通りにならない。辛いことしかない。苦は避けようのないこの世の真理とするのが苦諦です。

集諦の「集」に集めるの意味があるのかというとあまりないようです。元のサムダヤ(samudaya)というサンスクリット語の訳として集の字が当てられているのですが、この場合のサムダヤは原因と理解すべき単語のようです。
集諦は世の中が苦である原因を示していると説明されます。苦の原因は何か。仏教では煩悩(渇愛)であると説明されます。
そもそも世の中に本質的に苦が存在している訳でありません。人が煩悩を持って生まれ、煩悩を持って生きることで世の中を苦と感じ、世の中を苦に転換してしまいます。煩悩から苦が生まれます。煩悩が苦の原因である。それが世の中の真理であると説明しているのが集諦とされます。とてもジワっと来る教えだと思っています。

四諦とは違う話しですが、世の中が諸行無常であることが苦の原因との説明があります。形ある物はいつか壊れ、人は日々少しずつ老いていき、昨日楽しかったことが今日は飽きてしまい、安寧な日々が一転して不測の災害に遭ったりします。変わらなければ煩悩が苦に転換されることもないのでしょう。
諸行無常もお釈迦様が教える真理であり、別の側面の苦の原因であるとの説明には深く納得します。

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