「じゃがいも」のお寺話46 平安京
桓武天皇(在位: 781年~806年)は政治に多大な影響を与えてくる平城京の大寺院を嫌い遷都を決めたと言われます。
天皇になって3年、784年に平城京から長岡京に遷都します。しかし、遷都してから天災や祟りが頻繁に起こります。遷都した天皇が災いの元である、天皇としての器ではないのでは、と民衆に思われてしまうのを恐れて長岡京遷都からわずか10年で平安京に遷都します。
政治的な活動としては、東北や北海道の平定のために坂上田村麻呂を史上初の征夷大将軍に命じて軍隊を派遣したのも桓武天皇です。
後の話ですが、異母兄弟の他戸親王と井上内親王が皇室を追われて急死した祟りが様々な災難の元と考えて怒りを沈める儀式を行っています。
正式には天皇になっていないので天皇の家系図には表れないですが、本来なら天皇になっていたはずの他戸親王に「崇道天皇」という天皇の称号を追号しました。井上内親王は一度剥奪された皇后位に戻しました。墓も天皇家のものとして整備しています。
桓武天皇の仏教界に対しての対応ですが、
南都六宗と呼ばれる既存の奈良の寺院に対して京都にお寺を移設することを禁止しました。東寺と西寺という2寺を朝廷が作りましたが、奈良からの移設だけでなく原則として平安京の中に新しくお寺を建立すること自体を禁止しています。
今、京都の中心部にもたくさんのお寺があるのは大原則として平安時代以降の建立のようです。平安京ができる前に既に建立されていた、例えば広隆寺や清水寺のようなお寺は平安京の外であったので存続は認めました。
最澄は802年に桓武天皇から唐に行くように命じられて804年に唐に着きます。天台山で天台の教えを受けて805年には帰国しています。最澄は天台の教えを日本に持ち帰ってくる使命があり数年で帰国するように指示されていました。
空海も最澄と同じタイミングで唐に行っています。その時は無名の僧侶でなぜ唐に行く船に乗る資格を得たのかも不明なことが多いです。
最澄は期限付きの唐への派遣で日本に帰ってからの布教を期待されていました。空海は20年の修行を経て最新の仏教を体得してから帰国するように言われています。
しかし、その命令に反して空海は806年には帰国します。帰国した時点では天皇の命令に背き、修行もまともにせずに逃げ帰ってきたと誰もが思いました。実際のところ、空海は通常の人なら20年はかかるであろう修行をたったの2年で習得し師匠である恵果和尚からお墨付きを頂きました。早く日本に帰って習得した密教の教えを広めるように恵果和尚から指示を受けたので天皇の命令に背いて帰国を決めたとされます。しばらく太宰府で足止めされて都に戻ることを許されませんでした。天皇の指示に背いたので死罪になる可能性すらありましたが、空海が恵果和尚から譲り受けた多くのお経や密教宝具を持ち帰っていること、恵果和尚から日本に帰って布教に尽力するように指示されたことを伝えて許しを得ようとした結果、最澄が時の権力者にお願い出たのか、京に戻ることが許されます。この時、桓武天皇から平城天皇に代わっていて平城天皇が仏教に理解があったこともプラスしたと聞きます。
フロイトとユングか、馬場と猪木か、ビートルズとローリングストーンズか、運慶と快慶か、日本仏教史のスーパースター最澄と空海が生まれます。
桓武天皇の即位、奈良仏教からの離脱、平安京への遷都、歴史の綾というべきか、時代が彼らを求めたのか、日本独自の仏教が大きく開花する準備が整いました。
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