「じゃがいも」のお寺話54 僧兵(2/2)
天台宗では延暦寺の山門派と、園城寺(三井寺)の寺門派に分裂し「山寺両門の争乱」「山門寺門の争い」などと呼ばれる抗争が長年にわたり続きました。天台宗の僧侶同士がお互いのお堂を焼き討ちし合うような争いをしています。
平安末期に平家が台頭し、南都の寺院が長年所持していた特権を無視して取り締まるようになりました。東大寺や興福寺は真っ向から平家に反発し武力に対して武力で応戦したため一般に言う平家の「南都焼き討ち」(1181年)が起きることになります。東大寺と興福寺はそのほとんどの建物が燃やされ焼け野原になったとされます。
平家が最大の栄華を極めた時代の平清盛の命令で行われた南都焼き討ちです。平家の一方的な言い分を全て受け入れるのは納得しなかったのでしょうが、大規模な武装集団がお寺にいなければこれほど大きな争いにはならなかったのでしょう。
平安末期から始まる僧兵は、戦国時代には更に強大になります。日本中の寺社に僧兵が組織され戦国大名と真っ向から戦う存在となります。
織田信長と10年間も戦った石山本願寺の石山合戦(1570年〜1580年)はとても有名です。歴史の授業でも少しは習う内容でしょう。あの織田信長をとても苦しめたと聞きます。
当時の大寺院の中には戦国大名と真っ向から戦い、壊滅的な被害を受け、場合によっては無くなってしまったお寺もあります。
僧兵とは少し異なりますが、仏教関連集団による武力行使で戦国大名を苦しめたのは一揆です。土一揆、百姓一揆と言った仏教関連集団とは限らない一揆もたくさんあるようですが、一向一揆は一向宗と呼ばれる仏教集団をベースとしていると思います。
一向俊聖(いっこう しゅんしょう)(1239年〜1287年)という浄土宗の僧侶から始まる念仏を行う集団を「一向衆」と呼んだりし、宗派として見なせると考えた場合は「一向宗」とする場合もあったようです。
様々な場合で一向宗という名称は出てきますが、結果として正式に独立した宗派として認められなかったようです。
近江金森合戦という戦が1466年に起きていて初めての一向一揆と言われているようです。この一向一揆以来、戦後時代から江戸時代が始まる頃まで一向一揆が各地で起きています。
寺社の所領は太平洋戦争後の進駐軍による政策で檀家制度と合わせて解体されるまでは続いていたようです。
戦後のお寺しか知らない者には、お寺が武装して大名と戦い、お寺同士でも武力で戦っていた時代があることが全く信じられないです。
問題解決の手段として武力を用いること自体、仏教の教えとしておかししく思いますし、尊敬するお寺のあるべき姿とは相当かけ離れています。
時代による価値観の違いでしょうか。武装した僧兵がお寺を守って戦っていた時代の正義を理解しにくいのは、太平洋戦争時の特攻隊の正義をスッとは理解しにくい気持ちと近いのかも知れません。単純に真っ向からおかしいと否定できる内容ではないのかも知れません。
お寺にはそうした側面があったという事実を知っておく必要はあるのかなと思います。
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