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『Pretender』のqueer reading、Official髭男dismとブロマンスの相性のよさ

先日たまたま久しぶりにOfficial髭男dismを耳にした。
彼らの曲はやはりとてもブロマンスと相性がいいなぁと改めて感じつつ聞き入った。

なぜそんなふうに感じるのか妙に気になりOfficial髭男dismの歌詞のことをちょっと調べたら、 2019年に書かれたこの記事を見つけ”クイア リーディング(queer reading)”という言葉を知った。

もう5年も前の記事だが、queer readingについて詳しく説明され、その例としてヒゲダンの『Pretender』の歌詞は男女間の歌ではないという解釈もできるという内容だった。

BLやブロマンスの世界に慣れ親しんでいる自分の妄想癖をそのような解釈方法と結び付けて語るのはおこがましいが、この記事に書いてある漱石の『こころ』は10代の頃に読んだ時にそう感じたし(当時”何か”感じた人は私の友人のなかにも少なからずいて、漱石を傍に結構盛り上がった)、また今はヒゲダンの曲を聞いていろいろ感じるところもあり、一人納得している。
私だけじゃなかったんだ・・・。

queer readingについてはあまり深く知らないので、それに関連づけるつもりはないが、この記事を読んだ後に『Pretender』のMVを自分で実際に見て、私は別の感想を持った。この記事自体が5年前のものなので、その後それについても既にいろいろと意見が語られたのかもしれないし、以下に私が書くような見方もたくさん発信されたのかもしれないけれど、私は遅ればせながら今になって知ったので、ほぼずっと時代の流行に乗り遅れて生きている私なりの今の感想を書いておきたくなった。

私がqueer readingとして『Pretender』のMVと歌詞を見るなら、記事に書かれているような見方に加えて、この主人公の男性は、彼と並んで映像に出てきたあの個性的な短髪の友人に想いを寄せていたのではないかと感じた。単に同性を好きな指向の男性というだけではなく、ずっと近くにいたこの友人への想いを歌ったのではないかと。主人公の男性はロングヘアーの彼女と一緒にいても、時々とても寂しそうな、何か別のことを考えているような表情に見えることがある。私には、ずっと近くにいても伝えられない、伝えるわけにはいかなかった同性の友人への想いを諦めて、ロングヘアーの女性との恋を始めようとしているMVにも見えた。

もう一つは全く別の見方。
主人公に据えられている男性が異性愛者のふりをしているのではなくて、あの個性的な短髪の友人男性の、主人公の男性への恋心の歌にも見える(聴こえる)と思った。
主人公の男性がオレンジ色の服を着たロングヘアーの女性に想いを寄せていることを、この友人男性は知っている。主人公の男性の視線の先にいるのがこのロングヘアーの女性であることも近くで見ていた。そんな二人の距離が縮まり恋が少しずつ形になるのを、ただ近くで見届けるしかないあの友人男性の淡い恋のような気持ちの歌かもしれないと感じた。

この個性的な髪型の友人男性は遊び仲間のグループの一員として映るだけで、彼一人を大きく映すことはないし、その表情をメインにする映像はない。背景の一部として映っている感じだが、その割には、その存在が記憶に残るくらいにはよく出てくる。MVの中の他の遊び仲間とは違って、彼の存在に何かしらの意味を感ぜずにはいられないくらい気になる人だ。私には、ロングヘアーの女性よりもはるかに気になった。

もし一瞬でも、この短髪の友人の視線や表情に焦点を当てる1カットや主人公の男性と友人二人だけを映す1シーンでもあれば、このMVの意味するものはある方向に向けて具体的、決定的になり、描かれる世界はガラリと別の色合いを帯びたかもしれない。
でも、そうなっていないところがこのMVのよいところでもあると思う。(おそらく)敢えてそうせずに、そこに余白を残したことで、自分や恋の相手の性別に囚われず、様々な立場の人がそれぞれに自分に引き寄せて聞ける切ないラブソングになっているのだと思う。

今更だけど、誰がpretenderなのかいろんな解釈ができるとても面白いMVだった。
どう解釈するかは別として、やはり切なくていい曲だ。

そう言えば『ペンディングトレイン』の主題歌もヒゲダンだったなぁ。
やっぱり相性いいよねぇ。