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『スライ&ザ・ファミリー・ストーン』栄光と挫折の歴史❷アメリカ黒人音楽入門⑤『暴動』が起こった

有料記事ではありますが、前回の記事の続きです。

今回は記事一本丸ごと、1971年に発表された『スライ&ザ・ファミリー・ストーン』5thアルバム『暴動』についての記事です。

⑥5thアルバム『暴動(There's a Riot Goin' On)』暴動が起こった

Sly & The Family Stone - Family Affair (Official Audio)

『ファミリー・アフェア』(Family Affair)
1971年10月15日 バンドの9枚目のシングル。B面は「ラヴン・ヘイト」
伝記によれば、スライ・ストーンはシングルとして出すことに難色を示したと言われている。
マネージャーとエピック・レコードのプロデューサーのスティーヴン・ペイリーらの説得によりシングルカットされることになった。
同年12月4日から12月18日にかけてビルボード・Hot 100の1位を3週連続で記録。
1972年の年間チャートの79位を記録し、ゴールドディスクに輝いた。
この時期に作られた他の多くの曲同様、グループのメンバーは楽器演奏に加わっていない。
ドラムマシン(またはリズムボックス)とベースをスライ・ストーンが担当。
『ボビー・ウーマック』ーギター
『ビリー・プレストン』ーエレクトリックピアノ
『スライ』と『ローズ・ストーン』ーヴォーカル

ヒスノイズはスライが行った極端なオーバー・ダビングによるものと言われている。

歌詞は辛辣。
「それは家庭の事情」という言葉が繰り返されあと、
「勉強好きな大人に成長する子供もいれば
火を付けてただちに燃やしたくなるような大人に成長する子供もいる」
と歌われる。

1971年 CBSは『ファミリー・アフェア』を第1弾シングルとして発売した。
これは彼らの最後のNo.1ポップ・ヒットとなったが、彼らの初期のヒット曲のサウンドからは大きくかけ離れたものとなっている。
この曲のリズムはドラムマシン(リズム・ボックス)によるもので、こうした装置を使用したヒット曲としては最も時期の早い部類に入る。
スライはリズム・ボックスを使えば非現実的なサウンドが得られると考えた。
・ボタンを5つ押しながらテープを回す
・巻き戻してはまた別の5つのボタンを押す

というやり方でオーヴァーダブを繰り返していった。

・暴動が起こった(1971)

『暴動』スライ&ザ・ファミリー・ストーン リリース 1971年11月20日
レーベル エピック・レコード プロデュース スライ・ストーン

1971年 スライ&ザ・ファミリー・ストーンはニューシングル『ファミリー・アフェア』で戻ってきた。
『ファミリー・アフェア』はバンドの待望のニューアルバム『暴動』のリードシングルだった。

ファミリー・ストーンの1960年代の楽曲を特徴づけた、楽観的でロックレースの魂。
その代わりに、暗い楽器音、フィルター処理されたドラムマシンのトラック、そしてスライと他の多くのアメリカの人々の、1970年代初頭の気分。

【日本語字幕】キング牧師演説 "私には夢がある" - Martin Luther King "I Have A Dream"

1963年8月28日 キング牧師は職と自由を求めるワシントンでの行進の際に、リンカーン記念館の階段上で17分にわたって演説し、公民権運動に大きな影響を与えた。演説は20万人を超える運動支持者が聞いた。
演説と行進を受けて、キング牧師はタイム誌の1963年の Person of the Year に選ばれた。
翌1964年にはノーベル平和賞を当時最年少で受賞した。

1960年代はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が大きく牽引した、『アフリカ系アメリカ人公民権運動』の盛り上がりなど明るい希望に満ちていた。

1968年 『マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件』

1968年4月4日 キング牧師は、テネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで遊説。
その後メンフィス市内にあるロレイン・モーテルの306号室前のバルコニーで、その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯の『ジェームズ・アール・レイ』に撃たれる。
なお、暗殺した動機や、海外へ逃亡した資金源などはわかっていない。

この1968年のキング牧師暗殺に始まる黒人公民権運動の転換期の数年間。
それがまさにスライの最盛期。

スライの心境の変化はキング牧師暗殺と接点は一切ないが、アメリカ公民権運動やアメリカ社会全体、そしてその時代の気分の変化を見事に映し出し、反映している。

このアルバムは、かなりの量のテープヒスが特徴。これは、スライの大規模な再録音と制作中のオーバーダビングの結果です。
伝えられるところでは、アルバムのインストルメンタルのほとんどは、ビリー・プレストン、アイク・ターナー、ボビー・ウーマックなどの追加のインストルメンタル・パーツや友人の一部にファミリー・ストーンを参加させたスライだけによってプレイされる。

スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、『暴動』発売の少なくとも1年前にはエピックにアルバムを渡さなければならなかった。
しかしスライ・ストーンはレコーディングの期限を何度も遅らせていたため、CBSの役員クライヴ・デイヴィスは頭を抱えていた。
1971年秋 スライ・ストーンは個人で『暴動』のマスターテープをCBSレコードのオフィスへ送り、クライヴ・デイヴィスの悩みを解消した。

スライはカリフォルニア州サウサリートに建てたプラント・スタジオかベル・エアの邸宅の屋根裏に設けたスタジオにこもり、『暴動』の制作作業をほとんど一人で行なった。
『プラント・スタジオ』にはベッドと無線マイクシステムが設えられており、スライはしばしばそのベッドにただ寝転んだり、横になりながらヴォーカルを録音したりしていた。
ファミリー・ストーンの他のメンバーたちによると、このアルバムの演奏の大半はスライがスタジオでオーヴァーダブを重ねて一人で録ったものである。
『暴動』には他のメンバーの演奏が含まれた曲も収録されているが、これらもかつて通例だったように全員が揃って演奏するのではなく、別々に録音したものをスライとオーヴァーダビングするようになった。
『ファミリー・アフェア』他いくつかの曲のために、スライはビリー・プレストン、アイク・ターナー、ボビー・ウーマックといった同業の友人らを招き、自分のバンドメンバーの代わりに演奏してくれるよう協力を要請している。

『暴動』の大部分はスライ単独によるリードヴォーカルからなり、他のバンドメンバーでソロのリードパートがあるのはローズだけである。
アルバム全体はスライによる再録音とオーヴァーダビングにより生じた弱いダブ風のサウンドを特徴としている。
これがかえってスライの詞やヴォーカルの、くたびれて麻薬に溺れているかのようなトーンに調和していた。

本作でスライが扱っているテーマは、

スライ&ザ・ファミリー・ストーンのLuv N'Haight(1971 Epic 45)

ドラッグによる高揚感 ("Luv n' Haight") 

Poet

自己讃美 ("Poet") 

Africa Talks to You "The Asphalt Jungle "

そして1960年代というよかった時代と希望は過ぎ去り、1970年代という暗黒時代が訪れたという宣言 ("Africa Talks To You 'The Asphalt Jungle'")
など。

それまでのアルバムとは異なり、『暴動』は暗く不吉なサウンドを導入している。これは結果的に1970年代に多くの人々が沈み込んだ、夢や希望の喪失感をうまく反映していた。

前作『グレイテスト・ヒッツ』に収録された、怒りにみちた強力なファンク・ナンバー "Thank You" は、

Thank You For Talking To Me,Africa.

テンポを落とした不気味なヴァージョン "Thank You For Talking to Me Africa" として作り直された。

他に『ランニン・アウェイ』『スマイリン』『暴動』からシングルカットされている。

(You Caught Me)Smilin'Sly&The Family Stone

Sly & The Family Stone - Runnin' Away (Official Audio)

1972年後半、スライ・ストーンとラリー・グラハムの間の緊張はピークに達した。
コンサート後の乱闘がグラハムとスライの側近の間で起こった。
ババ・バンクスとエディ・チンは、ラリーがスライを殺すためにヒットマンを雇ったと聞いて、逆にグラハムの仲間を襲撃した。
グラハムと彼の妻はホテルの窓から降りて逃げ、パット・リゾは彼らの安全のために車を与えた。
スライとの協力を続けることができなくなったため、グラハムはすぐにファミリーストーンを辞め、『スライ&ザ・ファミリー・ストーン』と同じように成功したバンドである『グラハム・セントラル・ステーション』を立ち上げた。

・『暴動』リリースと反応

リリースと同時に『暴動』はビルボード・アルバムチャートにおいて初登場1位に輝いた。
批評家やファンの多くは発売当時『暴動』をどう捉えてよいものか理解できなかった。
しかし今日では、ロックの歴史の中でも最も優れ、最も誠実な作品の一つとして認められている。
のちの『ジョージ・クリントン』『ファンカデリック』、あるいは『オハイオ・プレイヤーズ』らのファンク・ミュージックの初期の例ともいえる。

・ジャケット写真

スクリーンショット 2021-08-30 8.21

アナログアルバム『暴動』ジャケット表面

『暴動』のオリジナル・ジャケットは、星のかわりに太陽を配した赤・白・黒からなる星条旗を用いている。
それ以外にはいかなる文字もタイトルもジャケットには記されていない。
写真を撮ったのはファミリー・ストーンのA&Rディレクターのスティーヴ・ペリーである。

このアルバム・ジャケットは「すべての人種の人々」を意味しており、
黒は色の欠如
白はすべての色の混合
そして赤はあらゆる人に等しく流れる血の色を表しているのだと説明している。
星の代わりに太陽をあしらっているのは、
スライによれば「俺にとって星は探求を意味してるんだ。星っていうのは探さなきゃいけないし、数が多すぎるからだ。でも太陽は常にそこにあってこっちを見てるものだろ。ベッツィ・ロス(最初の星条旗を縫った女性)はいい仕事をしたと思うけど、俺の方がうまいと思うね」

スクリーンショット 2021-08-30 8.21

アナログアルバム『暴動』ジャケット裏面

・シークレットトラック『There's Riot Going On(暴動)』

アナログアルバムにおけるA面の最後にはタイトル・トラック『暴動』が含まれている。
ただしこれは0分0秒と記されている(したがって当然聴き取ることは不可能)
CDでは完全に0秒の曲というのはデジタル的に収録できないので、実際には4秒の無音のトラックとして収録されている。
つまり、アナログレコードには曲名『There's A Riot Goin On』の表記のみでA面ラスト収録という設定。
CDの場合は、A面B面の概念がないので、5曲目『アフリカは君に語りかける(アスファルト・ジャングル)』と7曲目『ブレイブ&ストロング (Brave & Strong) 』の間に無音の6曲目『暴動』としての4秒間が存在する。

長らくこの謎めいたトラック・リストとアルバム・タイトルはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのせいで引き起された暴動のことを仄めかしたものだとされてきた。

1970年7月27日イリノイ州シカゴでの暴動

このときスライ&ザ・ファミリー・ストーンは、イリノイ州シカゴで、フリー・コンサートを行なう予定になっていた。
しかし、彼らがステージに姿を現わす前に痺れを切らした観客が暴動を起こした。
数人の警官を含めて100人以上の人々が負傷し、プレスには、
バンドが遅れた
演奏を拒否した
ために引き起された事件だと発表された。

しかし、1997年にスライのもとを訪れたファンの『ジョナサン・ダックス』に対し、スライはこの噂を否定している。
スライは「自分はいかなる暴動も起こってほしくない」という願いを込めて、表題曲 "There's a Riot Goin' On" には演奏時間がないのだと説明した。

・配信におけるシークレットトラック『暴動』

こちらはSpotifyにて配信されているアルバム『暴動』のプレイリスト。

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『Africa Talks to You("The Asphalt Jungle")』『Brave & Strong』の間に、『There's a Riot Goin' On』の表記があります。 

・『魂(ソウル)のゆくえ』ピーター・バラカンにあった記述

『新版 魂のゆくえ』ピーター・バラカン著

この『ソウルミュージックガイド本』にあった興味深い記述。

スライ登場後の黒人音楽への影響について

(最盛期の)スライのサウンドはたちまちソウル・シーンに影響を与え、モータウンはノーマン・ウィットフィールドのプロデュースによるテンプテイションズの作品などでスライの後を追った。

最盛期のスライに対する著者の印象について

私自身は(スライの楽曲を)ソウル・ミュージックとしての意識は全くなかった。
ホーンセクション使い方も「白い」感じがした。
(中略)すごいパフォーマーだとは思ったけれど、やはりソウル云々とは思ってもみなかった。
(中略)要するにそれほど好みの音楽ではなかった。

『暴動』を聞いた第一印象について

71年の『暴動』のスライはそれまでのスライとは同一人物とは思えない。
確かにロックの要素もかなりあるが全体の印象は真っ黒だ。
それ以前好みに合わなかったロックっぽさの代わりに、
・非常にニュアンスに富んだリズム感があって、
・まだその当時ファンクという言葉を知らなかったが、
・真にそれだった。
・完全に新しい音楽だった。

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