私の十戒を作る
著述家執行草舟(しぎょう そうしゅう)は、今年の夏に『超葉隠論』という本を出している。
こちらで書影を見ることができる。
表紙をめくると、黒地に白字で「葉隠十戒」という『葉隠』から著者が選んだ十の言葉が列挙されている。
「十戒」とは、旧約聖書出エジプト記に出て来る、「モーセの十戒」を指している。
それをモデルにして、著者はこの「葉隠十戒」を編んだ。
著者が、「葉隠十戒」を思いついた経緯を、『超葉隠論』から紹介しよう。
プロテスタントの立教小学校五年生の頃、著者は、教師の引率で映画『十戒』を見て、いたく感動し、「よし、やっぱり、自己の魂を立てるのには十戒が必要なのだ」(執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p,202)と思ったという。
以来、七十歳の今日まで、「葉隠十戒」に始まり、「葉隠十戒」に終わる人生を歩んできたといい、それが『超葉隠論』となって結晶化され、今日、他者の目にする形となった。
著者が、「葉隠十戒」を思いついた経緯や動機を読んで、思ったのだ。
「聖書から、自分にとっての十の言葉を選んでみては面白いのではないか」と。
クリスチャンには「愛唱聖句」というのを持っているものが少なくない。
これは、自分にとって大事で、日々、口にし、思いめぐらしている聖書の言葉である。
大抵、そんなに多くはないのだが、ここで提案しているのは、それを十個選びましょうという話だ。
クリスチャンであろうとなかろうと、聖書を重んじ、聖書が、自分の人生の土台であると感ずる人は、聖書から「私の十戒」を作ればいいだろう。
しかし、何も聖書や『葉隠』にこだわる必要はなく、『般若心経』でも『ヴァガバット・ギーター』でも、人類の至宝とも言うべき、魂の道を示している本や経典なら、何でもいい。
そこから自分の人生が始まり、収斂していくような「十の言葉」、人生の困難に際して、時に優しく、時に厳しく立ちはだかる「十の言葉」、そういうものである。
また、単に十の言葉を選べばよいわけではなく、どの言葉を何番目に置くのか、前後の言葉との関連、全体から見ての位置づけを考えねばならない。
どのようにしたら、「自分はこの十戒を元に、これからの人生を歩んでいく」と覚悟できるか。
誰に見せる必要もない。
むしろ、秘められるからこそ、それは、自分の魂を強く深く律するものとなっていくように思われる。
本選び、言葉選び、全てに妥協しない時間は、またとない自己との対話となるだろう。
この本の冒頭、著者は、葉隠を学んでも、現世では何の役にも立たず、得にもならないと明言している。
これは、聖書をはじめ、多くの古典にもそのまま当てはまることだろう。
確かに「○○に役立つ聖書」とか「○○に役立つ孫子」のようなタイトルの本はある。
だが、元々、そうした時の試練に耐えた書物は、水平的な価値、動物的な快楽実現のために編まれたものではなかった。
真剣に魂の道を求める人、真に人間らしく生きたい人だけが読む本が、葉隠だというのである。
そして、それは、研究という方法では近づき得ないのだとも言うのである。
同じことが、聖書にも、般若心経にも、コーランにも、数多の古典にも言える。
参考:葉隠十戒
参考までに、「葉隠十戒」を載せておく。
葉隠十戒(執行草舟選 『超葉隠論』より)
第一戒 武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。
第二戒 二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。
第三戒 図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打ち上(あが)りたる武道なるべし。
第四戒 毎朝毎夕(まいちょうまいゆう)、改めては死に改めては死ぬ。
第五戒 恋の至極(しごく)は、忍ぶ恋と見立て申し候。
第六戒 一生忍んで、思い死にする事こそ恋の本意なれ。
第七戒 本気にては大業はならず、気違ひになりて死に狂ひするまでなり。
第八戒 不仕合(ふしあわ)せの時、草臥(くたぶ)るる者は益(やく)に立たざるなり。
第九戒 必死の観念、一日仕切(しき)りなるべし。
第十戒 同じ人間が、誰に劣り申すべきや。