
世にある求職サポートの前提への違和感
就労支援プログラムが前提していること
この3ヶ月のミドル世代を対象とした就労支援プログラム(斡旋可)、あるいはその前から参加している就労サポートセンター(斡旋不可)に対して感じるのは、貨幣制度(不換紙幣の使用)を前提している人に、就職について相談しても、望む仕事を見つけるのは、ほとんどむずかしいのではないかということである。
というのも、サポートスタッフは、「いかに金を稼いでいくか」ということに意識の焦点が向いているので(本人たちに自覚はなく、無意識)、そういう方向の適性判断・求人紹介にしかなりようがないからである。
だから、求職者が、「貨幣制度から、できる限り離れた生活ができる仕事」を求めていても、最初の設定自体がズレているので、ほとんどの場合、見つからないし、あまりに真逆なものが紹介されるということも起こり得る。
もちろん、「貨幣制度から離れた生活・仕事」というのは、100%のものを求めているわけではない。
あくまでも物事の在り方として、また自分の可能性を伸ばしていく過程において、それらを促進していく生活・仕事という意味だ。
分野は同じでも、マインドセットが異なる
もう少し具体的に述べてみよう。
例えば、求職者が、人を魂の牢獄から解き放つカウンセリングや教育的な関わり方ができる仕事をしたいと考えていたとする。
分野としては、心理カウンセラーや教育、コンサルタント業になる。
別の言い方をすれば、求職者は、心理カウンセラーや教育・コンサルタント業に興味があると言える。
だからといって、塾講師・予備校講師や塾・予備校・学校の事務員がしたいわけではない。
高額コンサルティングセミナーやサロンを開きたいのでもない。
それらの学校・塾・セミナーが、「貨幣制度に基づく社会において、有用な人間になる」ことを目指しているなら、求職者にとっては、非常に遠い印象を抱くものとなるだろう。
実際、これは私自身の経験でもある。
この3か月間に目にした求人
この約3ヶ月間、いろんな求人を紹介された。
結局、前提が、「この貨幣制度社会において、いかに金を稼いで、生活し、人生を営んでいくか」なので、そこに近づけた応募書類の文章にならざるを得なかったし、同時に、何か自分を偽っているような、いわく言い難い窮屈さや違和感を抱いたものである。
主な求人の業種は、出版・印刷・製本、教育(塾・予備校・学校の事務員、営業事務)である。
出版業があるのは、前職で出版社で働いていたためで、スタッフがそちらに寄せた求人を持ってきたのである。
確かに、私は本を読むのが好きであるし、本作りに関わる人たちに、一定の敬意は抱いている。
だが、本作りがしたいわけではないことにも、職場体験等をしてみて気づいた。
だから、それに気づいた後は、「出版方面は要らないです」と、何度も言ったのだが、それでも、スタッフは出版社を勧めてきて、閉口したものである。
教育分野も同様である。
私の考える教育と、世の「教育」の大きな違いに気づく
私にとって教育とは、「外側からかけられた制約・くびきを解き放ち、その人自身が持っている可能性・特性が十全に開花するように助けるもの」である。
シュタイナーの教育思想やクリシュナムルティの思想が非常に近いと言えば、おわかりになるだろうか。
外側の期待を押しつけるのではなく、一人一人の特性をよく見て、その可能性の開花を後押ししていくような関わりである。
それを、ソクラテスは、「産婆術」といった。
真理や徳は、外側から与えられるものではなく、誰の内にも眠っており、ただ適切な示唆・気づきを与えれば、誰もが「何が正しく、何が間違っているか」を弁えていけるようになるというものである。
現代だと、イスラエルの物理学者エリヤフ・ゴールドラット博士のTOC(制約理論)がこの系統につらなると言えるかもしれない。
この世の「教育」は、本当に教育と言えるのか?
だが、この世の多くの「教育」はこの真逆である。
率直に言って、この世の「教育」とは、人の魂を牢獄に入れるものでしかない。
それは、果して「教育」と言えるのか、ずっと疑問を抱いている。
・同じ人はいないのに、特定の能力だけで人を比較・競争する――スポーツ、受験
・物事がうまくいかないと、暴力的な解決策に訴える
・子どもを従わせるのに暴力を使う、子ども同士の暴力――体罰、いじめ
・人や物や動物を大切にしない人間にしていく
・知性・左脳だけを育て、右脳・ハート・人間性を置き去りにした教育カリキュラム
・希少価値のある存在ではなく、置き換え可能なロボットにしていく様々な教育カリキュラム
つまり、人の見方を非常に制限的なものにし、人間性を奪い、他者を思いやる心を潰してしまうようなのがこの世界の「教育」と称するものである。
人は一人一人違うことを弁えていれば、競争などしないし、競争に入りたくない人を、否定する方向も生まれないだろう。
むしろ、うまくいかないことを、どうやって助けて、その人の可能性を伸ばしていくか、そういう関わりになるのではないだろうか。
話を戻すと、こういう現代の「教育」に非常に強い違和感、あるいは反発を抱いているのは、私の求める教育がそれと真逆なためである。
このことはわりと最近気づいた。
求められているのは、貨幣制度社会を維持・強化する上で有用な人間
貨幣制度社会を前提とした求職サポートであれば、どれほど綺麗事を言っても、結局は、「貨幣制度を維持・強化する人間になるにはどうするか」という求人紹介にしかなりようがない。
喩えて言えば、無農薬の野菜を食べたいのに、見た目が綺麗だからと、農薬を大量に使った野菜を無理やり食わされるようなものである。
「食べるかどうか」の選択は自分が行うとしても、そもそも与えられた選択肢が「農薬塗れ野菜」しかなければ、広い選択肢が与えられているとは到底、言えない。
それらの野菜の栽培には、単に農薬の有無だけでなく、なぜ無農薬なのか、何が健康な野菜なのかという、生産者の様々な理念やマインドセットの違いが根本にある。
そのマインドセット・理念の部分のズレを見ないままの作物の栽培あるいは求職支援というのは、一体、誰にとっての支援なのだろうか。
それが、この3ヶ月を振り返っての、根本的な疑問である。
それらの制度が無駄だったというのではない。
だが、私のような人間が、仕事を見つけていく上では、あまり助けにならないものと言わざるを得ない。
おそらくこう考えている人は、他にもいる。
必要とされる働き
今のところ、明確なビジョンはないが、そもそもの仕事や生活の前提・価値観を明らかにした上で、「貨幣制度から離れた生活・人生」をサポートする関わりができると、助けになる人がいるかもしれない。
少なくとも、自分の魂に妥協したくない人、自分を偽りたくないが、同時に、この世界のため、誰かのために、働きたいという人にとっては、こういうサポートは有用だろうと思う。
理想とする関わりのイメージ
私自身は、高額セミナー・サロン・教材を買わせて、搾取して、自分の懐を満たしたい欲求はないし、そんなことをしたら、強い良心の呵責を覚えるのが目に見えている。
だから、私が生活していける範囲の対価は頂くにしても、金のための仕事はしたくない。
そして、クライアントが、自分と社会との前提・価値観のズレに気づいて、妥協しない方向に歩み始めたら、手を引いて、あとは見守るのが理想形ではないかと考えている。
おそらく、自分軸がある程度、確立している人でないと、関わるのはむずかしいかもしれない。
また、問題の解決を先延ばしにして、クライアントの時間とお金を無駄に搾取するビジネスがあるが、それは違うと思っている。
出張の整体調整をしている友人がいるが、彼は一回治して、あとは関わらないのが基本スタンスだという。
「何回もやる人は、下手なんです」とも言っていた。
この指摘は、いろんな業界の、同様のビジネスモデルの人に当てはまるだろう。
いろいろ述べたが、「貨幣制度社会とは異なる方向での生活・仕事の構築の仕方」という主題は、また今後、考えてみたいと思う。
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