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情報それ自体が堕落である

 何かわからないことがあったら、キーワードを見出して、検索して、出てきた情報を調べ、比較検討し、考える。

 これは、ある種、当たり前の営みだろう。

 だが、自分に不必要な情報まで、一緒に漁ってしまうこともなくはない。

 以前、ある講座で教わったが、現代人が一日に取得する情報量は、江戸時代の人の一生分に相当するという。

 自分の身の丈以上の情報を、知らず知らずの内に、あるいは半ば強迫的・習慣的に取得しているのが、現代人の状況だろう。

 そういう時、二つの言葉を思い出す。

 一つは、ジル・ドゥルーズの「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ。

 もう一つは、マルティン・ハイデガーの「情報とは「命令」という意味だ」である。

 前者の出典は、ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』(法政大学出版局、2006(1985)、p,371)である。

 この邦訳では、「情報の劣化などありえないとすれば、それは情報そのものが劣化だからである」と、翻訳されている。

 最初に引用したのは、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010、p,17 以下『切手』と呼称)からのものである。

 ハイデガーの出典は、調べたが、わからなかった。

 ともあれ、二人の言葉は、情報とは、本来何なのかを、克明に述べている。

 それは、人を病み衰えさせる命令なのだ。

 特に、佐々木は、あらゆることについて、「それ知っているよ、これこれこういうことでしょ」と、自らの優位性を示そうと躍起になるような「批評家」や「専門家」を念頭に置いて言っている。

 今では、職業的な学者や批評家・専門家だけでなく、SNSや動画サイトの大型インフルエンサーやそのフォロワーにも、こういう類の人々がいて、必死に、「命令」を発している状況が現出している。

 一体、そこに、本当に立ち止まって、目と耳を貸すに値するものがあるのだろうか。

 佐々木の言葉を引こう。

“皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。情報を集めるということは、命令を集めるということです。いつもいつも気を張り詰めて、命令に耳を澄ましているということです。具体的な誰かの手下に、あるいはメディアの匿名性の下に隠れた誰でもない誰かの手下に嬉々として成り下がることです。素晴らしいですね。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込める訳ですから。自分は間違っていないと思い込める訳ですから。” (佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』p,17)

 自分の許容量以上の情報を集めることは、自分を疲弊させることにしかならないのは、少なからずの人が感じているだろう。

 もし情報を遮断することに不安を覚えるなら、それをこそ、危険の兆候と見た方がいい。

 命令から逸れようとすることを、体が、間違って、不安と感じているだけなのかもしれない。

 佐々木は、『夜戦と永遠』という大部な本を引っ提げて、いきなり出現したような作家・理論宗教学者なのだが、そういう人は何も彼一人ではなかったことを、『切手』で指摘している。

“突然出現したように見える人というのはひとつ共通の特徴がある。それは、「誰の手下にもならなかったし、誰も手下にしなかった」ということです。誰の命令も聞かない。無論、全く誰の話も聞かないということではありませんよ。ただ、話を聞くのも才能、聞かないのも才能ということです。高圧的な脅迫には屈しないという、誰だって身に覚えがある話でね。まだ初々しく詩壇に登場したばかりのヴァレリーが、師と仰ぎみていたマラルメに詩作の忠告を求めて手紙を書いたことがある。マラルメはどう返事をしたか。「唯一の真の忠告者、孤独の言うことを聞くように」と。美しい逸話ですね。私の言うことも聞くな、ということです。誰の「手下」にもなってはいけないし、「命令」なら誰のものだって聞いてはならない。” (佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』p,12-13)

 誰かの「命令」を聞いて、「手下」になっている間は、自立していないも同然である。

 今は、「手下」を通り越して「奴隷」と言うべきなのかもしれない。

 あなたは、自分の孤独の声を、最近、いつ聞いただろうか。

 ヴァレリーとマラルメとの間で起きたのと同じ話が、リルケと彼に相談をしてきた詩人を志す人との間にもある。

 リルケは相手にこういう手紙を送った。

“あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。(中略)では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。” (リルケ、高安国世訳『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』新潮文庫、1953、p,14-15)

 「外側の声を聴くな」ということである。

 執行草舟が『超葉隠論』で述べている「永久孤独論」も、同じことを述べている。

 “孤独とは、自己固有の人生を貫く決意のことを言う。”
 (執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p.30)

 そう決意できないから、つまり、臆病だから、あくせくと「命令」を集めるのだと、繰り返す必要があるだろうか。

 本当に、孤独になり、情報を遮断し、自分がつかみたいものに体当たりをする人は、勇気のある人だ。

 なにせ、それは、必ず安全な地に到達させてくれるという保証などない営みだからだ。

 偶然性に身を曝す行為だからだ。

 命令に屈従する奴隷には、そんなことは、恐ろしくてできやしない。


 時々、あらゆる外的情報を遮断し、数冊の本をもって、外界と隔絶した環境、例えば修道院のようなところに閉じこもりたいと感ずることがある。

 『ドラゴンボール』で出て来た「精神と時の部屋」が、個人的には理想だ。

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 おそらくは、世の喧騒を超えた視座、永遠の響きに、深く身を浸したいという欲求なのだろう。

 物理的に、それを実現するのは容易ではないが、しかし、可能な範囲で、情報収集という営みをやめるように試みている。

 もしかすると、それは、「愚か者」に見えるふるまいかもしれない。

 だが、本当につかみたいと思えるものに、一歩でも近づけるならば、他人からどう思われ、どう呼ばれようとも、どうでもいいではないか。

 そう思えるのも、孤独の中で、一人、ひたすら読んで、「そうとしか読めない」営みをすることにおいてだ。

 読むとは、文字の彼方で、書き手や死者たちと交わることである。

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