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幾度傷つこうとも、不死鳥の如く、甦る
今回の記事では、最近、起きた出来事と、そこからの気づきを記していきます。
おそらく個人的な経験と言えるでしょうが、もし何か、人生を照らす光をわずかでもつかんでいただければ幸いです。
人間関係の基盤とは?
人が人と何かをやっていく上で、最も基盤となるのは、信頼です。
そうではないでしょうか。
相手の人が信頼できる、そうでなければ、継続的に何かを一緒にやっていくのはむずかしい。
何か重大な事柄について、信頼していた人が嘘を吐いていたり、間違ったことを言っていたと知った時、それを誠実に認めて、謝罪するならよい。
そうではなくて、言い訳をしたり、無理やり正当化したり、あるいは、相手にマウントをかけてきて、「私を疑うお前がおかしい」と言ってきたりすれば、不誠実なものを感じるはずです。
人間ですから、自分が「真実」と思っていたことが、実は嘘だったり、不正確だったり、間違っていたと、後でわかることはあります。
私など、よく起きています。いろいろ調べていても、「調査不足だった」と思い知ることも、よくあります。
それでも、本当のことを知りたいと思うから、そこから学んで、先に進みます。
過ちを認めないということは、関係を進めることにはつながりません。
むしろ、過ちを認め、同じことを繰り返さないと、行動で示すことで、両者の関係はより一層、深まっていくのではないでしょうか。
深い仲の友人から、マウントされた
最近、深い仲の友人(夫婦)から、あり得ないことをされて、絶縁しました。
家に遊びに行き、何度も遊び、旅行に行き、食事もした間柄です。
深い話も、何度もしました。
事の顛末はこうです。
約一週間前、私は、とても経済的に困っていました(今はちょっぴり持ち直しました)。
また、世界情勢を追っている方はおわかりでしょうが、今年1月以降は、とても混沌としていて、これから世界がどうなっていくのか、見通し難いものがあり、旅行に行くというような、予定が立てにくいと感じていました。
(大枠では、私は、これから世界は良い方向に向かっていくと感じているので、そこの不安はありません。今朝のCPACでのトランプ大統領の演説も、良いサインだと受け止めています。
余談ですが、テロップには「トランプ大統領」とあり、「前大統領」とはなかった。
また、国旗から、ゴールドフリンジが取れていました。)
それで、この二点の理由を言って、友人がする予定のセッションの代金を返してくれないかと頼みました。
セッションは始まっていなかった。
やり取りはメールでしていました。
夫婦の一方が、こう返信してきました。
「二人で話し合って、ようやく見えてきました。最終的なすり合わせをしたいので、一度、お電話できると嬉しいです。よろしくお願いします。」
この時点で、かすかに違和感は覚えましたが、これまでの積み重ねがあったので、私が考えている以上の、良い解決策があり、それはメールでは表現しにくいのかもと思い、了承しました。
少なくとも、この時点では、私は、二人との関係を、今後も続けていく、続いていくだろうと思っていました。
友人のあり得ない「提案」に仰天する
それで、電話で話しました。
友人は、こういう趣旨のことを言いました。
「セッションの都合上、返金はできない。しかし、事情はわかる。キャンセルをして、関係が切れるのは忍びない。それで、こちらから、Jacobさんに、Jacobさんが入金されたのと同額を貸すという形にしたいが、どうだろうか。セッションを受けるという意志はそのままにしておいて、お金は、一時的にJacobさんに貸すという形で渡したい」。
なぜ、ストレートに返金して、「またゆとりができたら、お待ちしています」と言えなかったのか、この時も、今も、全くわかりません。
倫理的にいかがなものかという内容とは別に、いくら考えても、合理的な理由が思いつきませんでした。
さて、この「提案」を聞いた時、表に出しませんでしたが、内心、とてもざわつきました。
この借金の「提案」を飲まざるを得ない私の状況をわかりながら(最初に、メールで明言している)、友人が「提案」をしてきたからです。
断ったら、返金しない可能性が示唆され、私は黙って飲まざるを得ない状況でした。
とても屈辱的で、憤りを覚えました。
これは、金を持つ者が、持たない者に対して行う一方的な恫喝であり、「提案」とは言いません。
提案は、立場が対等の者同士で行うことです。
これで、信頼関係が壊れないと考える方が、相当、どうかしています。
そして、なぜこうもマウントを取られるのかが、全く理解できませんでした。
困難の時にわかること
この件は、全て対処済で、気持ちの整理もついています。
それでも、まだちょっぴりショックは残っています。
自分が困っている時に、誰が友達で、誰がそうでないかが、わかると言います。
ドナルド・トランプ大統領は破産したり、大きな困難に見舞われたりといった経験をする中で、本当の友人を見出していったと、何かで読んだことがあります。
私も同様で、今回のような経験をすることで、本当に信頼できる人、人の痛みがわかる人、親身になってくれる人とは誰かを、知っていきました。
同種の経験は、今回で三回目です。
教会でのことも含めると、もう少し回数が増えますが、一対一、あるいは一対二の関係において、「深い関係の人に、自分の窮状を訴えたら、あり得ない対応をされて、絶縁した」というのは、人生で三回経験があります。
一度目は、10年以上前、当時、交際していた人との間で生じました。(恋愛関係)
二度目は、師弟関係にあった人からされました。
はっきりと師弟関係を結んだわけではありませんが、私の文章力と読解力が向上したのは、この人の指導によるものであり、彼に出会い、学ばなければ、今の私はありません。
少なくとも、彼を尊敬できる先生として、学んでいました。
そして、三度目が今回の、友人関係です。
この経験を通して見えてきたこと
さて、以上はこれから話すことの前提です。
今、私は、この人たちに対して、恨みや怒りは抱いておりません。
もちろん、事柄が起きた時は、「あの信頼は何だったんだ」「あの関係は何だったんだ」とは思いましたし、怒りや悲しみ、ショックを覚えました。
二回目の時は、その人の著書を全部処分しました。
しかし、少し時間が経ってみた時に、振り返って気づきました。
関係が終わりにいたったきっかけはとても残念だったけれど、そこにいたるまでの日々では、喜び、楽しさを味わい、なかなかない経験をしたことに気づきました。
それは、否定する必要のないことです。
関係が壊れるまでの、彼・彼女との交流は、私の中では真面目で、真剣なものでした。
それは、これからも大事にしていけばいい。
これを読む皆さんの中にも、人から裏切られたり、信じられないことをされた経験のある方がおられるかもしれません。
あるいは、これからする人がいるかもしれません。
ご経験のある人は、「自分は何て見る目がなかったんだ」と自分を責めたかもしれませんし、思い出の品を全部処分したかもしれません。
それは無理からぬことです。
でも、そこにいたるまでの御自身の感情・感覚・経験を、自分で否定しないでください。
情愛が深いからこそ、悲しみもそれだけ、深い。
時に強い悲しみは、世界や他者を、これからも信頼するのを臆病にします。
しかし、そのかけがえのない日々があるからこそ、また深く傷ついたからこそ、見えてきたこと、気づかされたことがあるのではないでしょうか。
前二回と今回の違い
今回は、前二回の経験があったのと、私の話を信頼して、的確な助言をしてくれる友人が数名おりましたので、立ち直りは早かった。
自分のある面はショックを受けたものの、ある面は、この出来事が、人生を次に進めるためのサインであると感じています。
とてもショッキングな形ではあったものの、これは起こるべくして起こったと、受け止めている自分がいます。
最初の二回の後は、軽い人間不信になりました。
でも、人間不信になることのメリットがないのを知っていましたので、必死にそれに抵抗しました。
ただ、感謝あるのみ
絶縁したとはいえ、今では、彼・彼女に感謝があるのみです。
愛する喜びと愛される喜びを教えてくれてありがとう。
読む力と書く力を格段に向上させてくれて、ありがとう。
いろんな話をして、ふつうではない旅ができて、その経験を分かち合えたことに、ありがとう。
こうはっきり思えるようになったのは、三回目の出来事の後、手に取った、デーヴィッド・アイク『ハイジャックされた地球を99%の人が知らない 上』にある一節を読んだ時です。
「もう後戻りはできない。また、戻りたいとも思わなかった。そのときはわからなかったが、新しい人生を始めるには破壊が必要だったのだ。」(p,62)
私はこれからも、人を愛し、信頼し、誰かから学び、何かを知っていくことを続けます。
たとえ傷つくことがあっても、その度に、不死鳥のように復活し、その経験を糧に前に進みます。
事柄に、どう応じるかは自分次第
もちろん、裏切りを経験しない方がいいとは言えるでしょう。
楽しい経験ではない。
でも、もしそうした辛い、悲しい経験をされたら、私の受け止め方を思い出して、自分の中に宿る力を思い出していただければと思います。
事柄そのものを変えることはできなくても、それにどう応答するかは、常に自分の選択です。
それにどんな意味を与えるかは、常に自分次第です。
RPGやアニメなどで、主人公が、ものすごく傷ついたり、悲しみを味わったりという場面があります。
そのキャラクターが後で、それを糧にして、偉業をなしたり、幸福を実現したりしたら、その辛い経験がなくてはならないパズルのピースだったことに気づかされる、そんなことがあります。
それは、物語を最後まで進めないとわかりません。
だから、私は、これからも、希望を抱き、前を見て、日々の瞬間に、喜びで応じつつ、歩きます。
皆さんに、神の祝福がありますように。
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