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【日本史】河越夜戦の真相

割引あり

こんにちは。こんばんは。
RAPSCALLI😊Nです。

今回も日本史の記事を投稿します。

皆さんは「河越夜戦」あるいは「河越城の戦い」という名前の戦いを聞いたことがありますか?あまり知名度は高くないかもしれませんが、「桶狭間の戦い」「厳島の戦い」と並んで日本三大野戦の一つに数えられています。

端的に言うと、関東の北条氏康が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏ら率いる大軍に対し、夜襲を仕掛けて大勝利を挙げたという戦いです。

この戦いで北条氏は関東での勢力を劇的に伸ばし、戦国時代の流れを大きく変えた戦でした。

しかし、これはあくまで定説でしかありません。

実は河越城の戦いにおける両軍の大きさや戦いの経過などについて様々な事柄について疑問が呈されています。

今回は河越城の戦いが本当はどのような戦いだったかということに答えてみたいと思います。

※本記事で紹介する内容は筆者(RAPSCALLI😊N)が大学のレポートとして作成した内容に基づきます。個人的見解や考察に基づく箇所もありますのでご了承ください。

1.序論

 天文十五年(1546)、北条氏の守る武蔵国河越城を取り囲む扇谷上杉朝定・関東管領山内上杉憲政・古河公方足利晴氏ら率いる反北条連合軍3万の大軍勢に対し、城内には北条綱成率いる3千の兵が籠城し、北条氏康は8千の軍勢を援軍として引き連れていた。氏康は敵に降伏する素振りを見せて反北条側を油断させ、敵の隙をついて夜襲をしかけ、何倍もの兵力差のある敵軍を潰走させた。 

 河越城の戦いの流れの一般的な認識はあらかたこのようなものであろう。この戦いを契機に扇谷上杉が滅亡、山内上杉が弱体化し、北条家が関東の戦国大名としての地位を盤石にしたため、関東戦国史において重要な転換点とされてきた。また、この戦いは三大夜戦の一つにも数えられ、「河越夜戦」の名で広く知られている。

 河越城の戦いにおいて北条方が巧みな戦略をもって圧倒的な数的不利を覆して大軍に大勝利したという典型的な見方は、後世につくられた『鎌倉公方九代記』『北条記』『北条五代記』『関八州古戦録』などの書物に共通する見解で、長らく定説と考えられていたが、伊禮正雄氏が昭和四十九年にこの見方に対して疑問を呈してから、河越城の戦いの実態について様々な議論や研究がされている。伊禮氏の河越城の戦いに関する懐疑論が詳しく掲載されている著書『関東合戦記』が昭和四十九年に出版され、今年で半世紀が経つ。伊禮氏は河越城の戦いが定説でいわれるような大規模な戦闘だったことを否定し、天文十五年前後に起こったいくつかの戦闘が後世になって一日に集約されたと主張した。この主張はそれまで正しいとされてきた軍記の記述を初めて批判的に見た斬新なもので、今も多くの研究者から根強い支持を得ている。本原稿では50年経った今、改めて伊禮氏の主張を考察し、再検討や改善の余地が残されているかを新しい史料や研究も利用して考えたいと思う。



2.本論

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