Noと言えない環境で育ったので、Noという習慣がない
M君が退職した。
僕の2コ下で、1年前に新卒で入社した後輩は、
「周囲とのコミュニケーションがまったくとれなかった。自分はいままで気づかなかっただけで、ほんとうはコミュ障なのかもしれません」と嘆いていた。
「Noとか厳しいです、とかいったら、もう自分にチャンスは巡ってこないわけじゃないですか。現状Noでも、なんとか努力して結果を出さないと」
体育会系のバックグラウンドを持つ人にありがちなことだ。そして、M君もその一人だった。
試合でレギュラーとして出たいのでコーチの言うことには徹底的に従う。ムリという言葉はない。まだやれる、と自分を奮い立たせ、結果を出す。
淡々と努力を続けるM君を、僕は深く尊敬している。
僕自身、体育会系の出身でありながら、その現実に打ちのめされ、努力を投げ捨てることが多かった。高校入試も、センターも、投げ捨ててきてしまった。だからこそ、後輩とかなしに、いち個人として尊敬している。
でも、社会はおどろくほど残忍だった。
M君の入った会社では、「ムリなものはムリと言いなさい」という風土だったようで、彼はたちまち孤立した。仕事にたいして喜びを感じ、ひとり残業している彼にたいしての評価は、辛らつそのものだった。
「コミュニケーション力がない」
「独善的で、チームに対して不信感を抱いているように感じた」
「頼ろうとしてくれない」
これは「お客さまの声」ではない。情報商材にあるような、作りものでは断じてない。
実際に社内であげられた声だ。
勇敢なことに、M君は退職する前に、上司や同僚へ、自分に対する評価を聞きに行ったのだ。
T君は渋谷のスタバで、半べそ書きながら僕にその音声を聞かせてくれた。
社会との、ひどいギャップを、T君は感じている。
そして僕はその隣で、「コミュニケーション」、「チームワーク」などというあまりに雑な言葉に、憤りを感じていた。
頼らないとか、頼れないんじゃなくて、最初から頼る選択肢がない
ムリといえない背景を持っている人は、少なからず存在する。
責任感を強く感じて、徹夜してでもやり通そうとする。自己犠牲をいとわず、献身的である。
しかし、職場の風土は変わりつつあって、そうした性格がネガティブな原因としてに出てくる職場環境が生まれつつある。彼らはやさしく言うのだ。
「協調が大切。ひとりで頑張る必要なんてない」
「遠慮しないで、どんどん頼れ。それがチームワークだ」
「潔く、わからないことはわからない、って言いなさい」
だが、届くはずがない。
わからないことは自分で解決する。
本を読み、Googleで検索し、じぶんの手で知識を深める。
それを当たり前として生きてきた人間に、残念ながら、優しい声は届かない。
すると彼らは手のひらを繰り返し、冷たい声で批判し始める。独善的だ、チームワークがない、頼ろうとしない。
どうすれば、この齟齬を解決できたのだろうか。
頼ることはチームワークなのか?
多くの人は、頼って頼られてを繰り返し、そうして太いコミュニケーションができるものだ、と信じている。そして、それは事実だ。
でも、ひょっとしたら幼少期に「人に頼らず、自分で考えなさい」と言われて育った人もいるかもしれないし、あるいはM君みたいに、言われたことに対してNoと言えない環境で育った人間もいるかもしれない。
そういう人に対して僕らがしなければならないことは、人を頼れ、と優しく言うことではなく、協調性がない、と陰口を言うことでもなく、彼らのもっと近くでコミュニケーションを取ろうとすることなのではないだろうか。
頼られに行かなければ、孤独になってしまう人は少なからずいるのだ。
そうしたチームワークも、あってもいいのではないだろうか。
最後に、この言葉で終わらせようと思う。
人間は、優れた仕事をするためには、自分一人でやるよりも、他人の助けを借りるほうが良いものだと悟ったとき、その人は偉大なる成長を遂げるのである。 ( アンドリュー・カーネギー )