表現方法について
わしにはわしの表現方法があって、きみにはきみの表現方法があって、
それでもとにかく表現するけど大切なのは表現方法だけではない
わしはわしの感情を表現するけど何かしらそこには誤差みたいなものがあってそれを補完するのは五感すべてに現れる状況だから、人はすぐに直接に会いたがるし、人のしんたいが開くときは食べるときにもよく起こるから、ランチに行きたがる。わしは人とランチをするのが苦手だった。わしは食物と向かい合いたかった、人の言葉に首尾よく反応するために身構えていたらわしの舌は待機に忙しくて、味を感じられなくなる。
でもわしはそれは間違いだと知った。味がなくならないで一緒に食べられる人はいるし、味わっていたほうが相手とより深く話せるのかもしれない、と分かったのだ。わしはわしでその感情をそのまま出してよくて、そのためにはわし自身がわしの感情すべてをいったんは肯定する必要があり、そのために環境を整える必要があり、いったんは環境を単純に捉える必要があり、いったんは考えずにしんたいで人と話し合う必要がある。
だって、そうやっていったらここちよい、無理のないせかいが広がり始める。わしはきみに言っている、わしができることはこうやって言葉を浮かべて文字を並べるだけ、わしはわしの無力を痛いほど知っている。わしはそれでも書かずにはいられない、わしのなかからホトバシルきみへの応援歌なんだよ。でも無理しなくていいんだ。わしはむしろためらうことなく現在のきみを全肯定する。
きみは今までよくやってきただろう? それは間違いなくこの宇宙を構成してきたし、さまざまなものを与え続けてきたんだから、きみはきみをほめなければならない。わしはわしとしてきみをほめることしかできない、しょせんそんな無力なわしは、きみがきみとしてきみをほめることを見ようとしている。なにもおそれることはない、きみはきみとして最高にきみである。
わしはきみだけに言っているのではない、わしはわしとしてわしにも言っている。きみはきみとしてきみに話しかけてくれ、そして最後にはその言葉を捨てる。捨てたところから浮かび上がってくる新しいコトバを捕まえろ。だからわしらは生成する。新しい生き物へと。でもひとつとして無理のないように与えることができる。なぜかはわからないけど、ああ、わしにはわからない。
だれにもわからない、しかし、しんたいを開いて、開いたときにしぜんと、無理なく話し合える人がぜったいにいるよ。無理する必要はないから、長い目で見渡すんだよ。だって何億年も、地球は回り続け、山はそこにあり、川は流れ、窒素は循環し、感情は爆発し続け、愛はめぐり続ける。
どうしていまこの瞬間にわしは生きながらえているのか? と考えれば考えるほど、よくある悩みのパターンへとすり替えられていって、さいしょから実は知っていた幸福をのがし続ける。無理せずこころよいきもちになることを、断固として、いまここで実現させ続けていくんだよ。そのための技術として、
わしにはわしの表現方法があって、きみにはきみの表現方法があるんだと思う。
だから、大切なのは、表現方法だけじゃなくて、なんとかうまくいくように、表現を続けて、そうやってなんとかうまくいってる、なぜなんだ。自覚して、わしはわしの表現方法で、きみはきみの表現方法で、なぜうまくいくのか?
うまくなんて、いってないよ、というの? それは本当なの? いまきみはわしの言葉を聞いてくれていて、それは意外とうれしいというか、何というか、
ああ、わしのことはいいのだ、きみに言いたい。
親愛なるきみ、いつでも表現してください、いまここで、あせらずに、でもおそれずに、きみをここに存在させてください、すべてをいったんはそこに。
そう、それでいいのだ、と、わしはそう思う。おお、どうやらわしはしゃべり過ぎたようだ。きみはきみのままでいい。
だって、わしができることはここまでだが、きみにはきみのすべてがあり、きみにできないことなど、ない。しかもきみは与えているのだから!
ありがとう、まだまだ続いていくよ。
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