つれづれなるままに Part6

インターネットにかぎらず、すべての表現が、まず最初に受け手を刺激することが大切だと気付いた瞬間から、ポルノ化を考慮に入れ始めるとしても、人間の欲望が変わってしまえば、あからさまなそれを考慮に入れる必要はない、はずだ。そしてそういう世界が訪れても不思議はない気がするのに、ぜんぜん訪れない。


ふと気がつくと、また違う朝が来ていて、

わたしはそれほどには変わっていないままに、くだらない悩みを反復している。

だからわたしはこのような馬鹿げたことをやめてしまいたいとおもって、

いる。

ささいなことからわたしの将来への不安は起こっていたはずなのだが、時間が過ぎるとすぐに手軽なおやつのような楽しみへと手を伸ばし、

本質的なことはなにも解決しない、なにも解決してはいない。

たしかに今の状態のままでゆるされるなら、解決も改善もいらないし、わたしはこのまま永遠に閉じ込められてもよい、かもしれない、まあそこまで言い切る勇気すら持ち合わせてはいない、だけど、

たぶんわたしが望む望まないに関わらず、わたしは永遠に今の状態のままでいることを、ゆるされないように世界は動いている、だからわたしは、にがわらい。

だれが、わたしに今の状態のままでいられないように、仕向けているのか??

単純に、不思議なのだ、わたしたちは動いてしまうから、生命なのかもしれない。よくわからないけど、何らかの意味で動いていなければならないし、それは、何を求めているのかも、よくわからない、だけど、生きることはすぐに過ぎ去っていく、そしていつも始まっている、そうやって、楽しいけど、何だったんだろう、と振り返るときに、歴史書が生まれる。

だれも、楽しくないことを望まない、はずなんだけど、えてして人は失敗して、みんなで楽しくなくなってしまうことさえある、なんとかして、うまくいったときを元手にして、また違う朝を迎えることができている。

わたしは、こうやってどうしてもがんばって楽観的な形而上学を打ち立てようとするものの、しばしばそのような形而上学は独断論にしかすぎず、宇宙の自然法則はいわば冷徹にわたしたち人間にまで貫徹していることを知っている。だけど、宇宙の自然法則だって、わたしたちがそれをあると思っているにすぎなくて、五分前仮説とかで論理的にはささやかな抵抗をすることもできる、でもまあ、抵抗といっても、特に有益なものではなくて、だって「本当は」五分前に始まっていようが何だろうが、わたしたちにはどうしても五分以上前から始まったようにしか見えないわけで、そうやって所与の知覚感覚にわたしたちの判断は譲歩し続ける、という、撤退戦を、ずっと続けている。

だからある種の「本当は」という言い方なんて、そういう意味では馬鹿げていて、でもわたしたちはそうやって、希望を持とうとしてきた、という面もあるかもしれない。

本当は、そうやってしか希望を持てないのかもしれない。

巧妙なフィードバックが働いて、それをあとから振り返って、やっぱりわたしたちは操り人形みたいに、愛し愛されて、時間を過ごしてゆく。


ふと気がつくと、また違う朝が来ていて、

夢中で駆け抜けた、一生をかけた老化現象にも、終わりが近づいて、

また新しい生命の芽吹きを祝福しながら、

しずかに眠りへと落ちていく。


そんな感じなのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?