何度でも哲学を始めよう(1)

もう一度シンプルな問いに戻ろう。

意味とは何か。

ぼくらは欲望とともに存在している。いつも世界は意味として現れるが、それらは欲望と相関しているのだ。世界は意味に分節されて現れる。しかしそれらはつねに欲望の対象ではない。さまざまな対象が、おもに事物が、現れているが、ほとんどの対象や事物は、ぼくらの欲望に対して中立である。少し遠くのお店に行こうとするとき、よく晴れた青い空は、特にその欲望に対して作用をしない。

ぼくらはつねに欲望をまとっており、それは何か強欲とか渇望とかではなく、欲求と言い換えてもいいのかもしれないが、ともかく「欲する」がつねにすでにある。一応この言い方で正しいのかもしれない。ただし、欲望が充足された瞬間のことは気になる。その瞬間、ぼくは無になっていることがある、という気がする。そのときぼくは何かを欲しているのだろうか。何も欲してはいない。むしろ存在していない。

欲望が充足されたあと、それは直後ではないときもある、そのあとで、ぼくは我に返る。そしてまた次なる世界が現れる。意志をもって欲望の対象に向かうとき。そのときを考えると、<ぼくは欲望をまとっている>という言い方は説得力がある、でも、自動機械のようにそこにあるコップを手に取り喉の渇きを潤すときを想起すると、ちょっとどうだろう、それはもはや呼吸をしているときのように、もう欲望とは違う何かであるような気がする。

そう、まさしく「息をするように」というあの言い方だ。

ぼくはいま、2つのことを言った。1)欲望が充足した瞬間、無になっている。2)行為に対して障害がないとき、もはや「呼吸」である、つまり無である。

無になっているとはどういうことか。これはつまり、あとで、記憶を思い出したときに、そこに何もないということである。夜、ベッドに横になり、目をつむる。次の記憶は、目をあけると明るい部屋。この間、ぼくは何があったか思い出せない。これが無である。では、欲望が充足したとき、無であるか? そうでもないんじゃないか。水を飲みながら、他の計画について、思いを巡らしていることがあるではないか。たしかにそうかもしれない。

欲望充足によって無になる、エクスタシーとかゾーンとか言われる、恍惚とか忘我とか言われる状態を無としよう。しかしそれらとて同じではない。感動するとか感激するとか言われるあの状態は無だろうか。少なくとも、未来について思いを致してはいないのだ。つまり無時間的という意味で無だ。

「よく覚えていません」

覚えているのは願望であり、執念であり、偏愛であり、つまり、欲望充足を待つこと、そして欲望充足の想像である。

だが、ちょっと待っておくれ、彼は、「よく覚えていません」と言っている。まったく覚えていません、ではない。無時間的であることと、想起不可能であることとは違うのだ、なるほど、がんばれば思い出せるのである。楽しかったこと、おいしかったこと、気持ちよかったこと。しかし寝ているときのぼくなど思い出せない。夢を見ていたことは思い出せる。

無時間的とはどういうことか。ドーパミンってやつのことか? いやそういう化学物質の話は今はやめとこう。おいしいとき、楽しいとき、ある閾値を超えると、時を忘れる。踊っているとき、のってきて、からだが自然となめらかに動いたときにぼくはなくなる。からだがなくなる。だから、苦痛がそれを停止させる。苦痛によって時間は生起する。

だから、自動機械になることができれば、ぼくらは平和だ。逆に言うと、平和なときとは、自動機械になっているときである。スマホを撫でて特に有意義なこともなく、猫のかわいい画像をスクロールしていれば、ぼくらは平和だ。

そのとき、世界に意味はない。

意味とは何か?

世界が欲望に相関している。欲望は苦痛から自覚される。たぶんこれで正しい。苦痛なき平和な無時間的な生に世界はない。だから、そうだ。たぶん、ブッダは言ったのだ、

生は苦である、と。

しかし、ぼくらは、教育されてきたのではなかったか? どうもよく分からなくなる。みんなで協力していい世の中をつくれる人間になれと、教育されてきたのではなかったか? しかしその結果が苦痛なき自動機械による無時間的な平和な世界だとして、それに一体なんの意味があるのか?

ぼくは今こそ、この問いに答えなければいけない。意味とは何であったか? それは欲望を指し示す。欲望は目的を指し示す。だから、世界がどんな世界だとしても、その「どんな」には意味はない。世界はどんな世界になることをも欲していない。世界はただある。こうしてここに世界はただある。

意味は、ぼくにとってだけ現れる。世界はぼくにとっては意味として現れる。ぼくはどんな世界を欲するか? それに応じて世界はぼくに現れる。ぼくが世界を欲さないとき、世界という意味は現れない。

なぜ、世界や人生の意味をぼくらは考えさせられるのか? どんな欲望が、世界や人生の意味をたずねさせるのか? ぼくらが目的を聞かれるからだ。

なにをやりたいの? だれになりたいの?

しかし苦痛がないとき、その目的もまた、それほど明瞭には浮かんでこないのだ。「今のままでいいかな(笑)」という言葉をゆるしてくれるのだろうか?

(つづく)

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まだまだ新しい話題には踏み込めませんでしたが。

きょうはこの辺で。

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