ギターロック夕暮れ試論〈ナンバガ・ザゼン・ベボベを繋げて〉
写真論の歴史的有名なものとして、ロラン・バルト著『明るい部屋』の記述がある。バルトはその中で「写真とは何か」という命題に対し、「「それは、かつて、あった」」と答えた。これはバルトの論における写真の本質のようなものであり、かみ砕くと「写真」の場合は、「事物がかつてそこにあったということを決して否定できない」ということを指すという。
時間軸に分けてみると以下のようになる。
「かつて、あった」ものを振り返り、懐古し、今を見つめなおす様子はギターロックの世界で多く描かれる内容ではないか。
〇NUMBER GIRLが描く夕暮れ
福岡市博多区から鋭角的なギターサウンドで、リスナーに衝撃をもたらしたのが向井秀徳をフロントマンに持つNUMBER GIRLである。1997年、インディーズでリリースした初めてのフルアルバム『SCHOOL GIRL BYEBYE』に収録されている彼らの代表曲が「IGGY POP FAN CLUB」。
最初に描かれる風景はかつての自身の夕日刺す部屋。
歌詞中の現在では「君」が「ヘンな歌って言った あの曲を」聴いている状態にある。
忘れていたとしても、「かつて」目の前に広がっていた印象的な景色は忘れ得ないものであるし、夕方と言う時間は、懐古の念を引き起こす時間と言えるのではないか。
〇Base Ball Bear(2004年)が描く夕暮れ
2004年に「夕方」というワードを冠したインディーズデビューミニアルバムをリリースするバンドが現れる。そのバンド、その作品はBase Ball Bear(以下ベボベ)『夕方ジェネレーション』である。今回は表題曲であり、バンド結成20周年記念の武道館公演を含め現在まで長らく演奏され続けている「夕方ジェネレーション」に注目したい。
「夕方」という時間帯は昼間から夜にかけての、どっちとも言い難い曖昧な狭間の時間といえる。「夕方ジェネレーション」とは子どもから大人に移行しつつある、しかし大人になったとも言い難い曖昧な年頃・世代を指していると言え、まさにこの作品を作った時のベボベのメンバーは18~19歳は「夕方ジェネレーション」と呼べる年頃であった。
そのためか、歌詞に表れている夕方の風景はどれも過去形ではなく、さらに夕日の色合いが鮮やかである。実際に見た時と、歌詞として表現した現在に大きな時間のズレがないからであろう。
この曲を通して、「夕方」という時間は懐古の念を引き起こすのみならず、ハイティーン(の心象)の表象としても機能することがうかがえる。
〇ZAZEN BOYS『らんど』の夕暮れ
2024年1月24日に向井秀徳率いるZAZEN BOYSが12年ぶりのアルバム『らんど』をリリースした。向井本人がこの作品に寄せたコメントが以下の通りである。
本作の楽曲には様々な夕暮れが表現されている。
ベボベのフロントマン小出も自身のポッドキャストで、向井秀徳の描く「夕焼け」について言及している(39分40秒頃~)。
「IGGY POP FAN CLUB」で描かれた夕暮れの景色は重ね塗りのまだ薄い「赤色」の景色であった。しかしそれから「とり憑かれ続け」、煮詰められて、「環八道路」が溶け、歪み、さびついた夕暮れの色合いは油絵の具を何層も重ね塗りするが如く分厚い色味になっているにちがいない。
またそこで描かれる景色は誰もいない公園で会ったり、少年少女が遊んでいたり、部活帰りの男子高校生だったりと、書き手自身の「かつて、あった」時代を重ね合わせられるものが多い。そのようなものが歌詞のモチーフとして現れるのは、アルバム制作の前にNUMBER GIRLの活動を再開させ、自身が見ていた「あの頃」の景色に触れたからか。
また、ファンクが反復を根幹にもつ音楽であるならば、かねてから「とり憑かれ続け」ているテーマをここで改めて用い、そのイメージとの往還・反復を楽曲に落とし込むのは、音楽性ともマッチしていると言えよう。
〇Base Ball Bear「夕日、刺さる部屋」の夕暮れ
ベボベもZAZEN BOYSと同じ2024年の2月28日にミニアルバム『天使だったじゃないか』をリリースする。その先行リリース曲が「夕日、刺さる部屋」である。
自身の「夕方ジェネレーション」や「IGGY POP FAN CLUB」をアップデートさせたかのようなギターリフを基調とした、ギター厚めのミドルチューンとなっている。
サビの歌詞は、従来のような「夕暮れ」の機能による懐古的な表現が並ぶ。
ここでいう「影」というものが「まぶしい日々」が残したもの。つまり、(ステッカーをギターに貼るようなハイティーンを含む若き日々であるところの)「かつて、あった」日々の記憶だとすると、「新しいステッカー ギターに貼る」様子や、「煙たいカーディガン 羽織った君」は、「かつて、あった」が今ここ(語り手の現在)にはないものたちと言える。
こういった通り過ぎて行ったものに対する心理的・時間的な距離を持った眼差しは「夕方ジェネレーション」でリアルタイム性をもって表現していたものとは、加齢を経て変化を持った視座であると言える。それらはラストでリフレインしているように「Never going back」、もう戻れないものである。
また、ここで振り替えられるのは語り手にとっての過去に留まらない。
特に「できてたっけな あの道って 将来」は違和感を持つフレーズである。これはおそらく「将来、「できてたっけな あの道」と振り返ることになるだろう」という予測に基づくフレーズである。だから、「近道がいちばんの遠回り」という、「道を通った後」だからこそ言える言葉が並ぶのである。
つまり、この曲の夕日は過去だけではなく、これから過去になる現在~将来も懐古の情を持って照射しているのである。
すると、「惰性でつづくラブ&ピース もうじき来る最終回 友達 街並み すべてが恋しい」の箇所が非常にアクチュアリティを持ってリスナーに刺さるのではないか。この日本と言う国では何となく「ラブ&ピース」が続いているものの、ウクライナ・ロシア、パレスチナ・ガザ地区の現状を鑑みるに、いつ我が身に「最終回」が来るかも分からない。身の回りのあらゆるものが「かつて、あった」、恋しさをもって求めるものになるか分からないのである。
向井秀徳の言葉ではないが「諸行は無常」であり、この曲の歌詞の通り「Never going back 何もかもが」なのである。それは何も過去に留まらず、未来にまで目を向けられている。「切なげなメロディー」が流れているのは「夕方ジェネレーション」もこの曲も変わらないが、いつまでも過去に感傷的になっている暇はないのだ。
この詩は「夕日、刺さる部屋」という「明るい部屋」の舞台装置を上手く応用した詩作と言えるし、この『らんど』と「夕日、刺さる部屋」が同じ年にリリースされるのは、何か運命めいたものを感じた。
※下のリアルサウンドのコラムも『らんど』と夕暮れを接続させたものである。