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満月
ドラマのヒロインが、行きつけの洒落たレストランで上司役の二枚目俳優と食事をしている。そこに、上品なセレブが登場。上司の驚いたような顔がアップで映り、聞きなれた派手な曲がテレビから流れてくる。
「あ、ええ。聞いてる。今日は遅くなるのね。わかった」
頑張ってね。尚美はテレビの方に顔を向けたまま手探りで受話器を置いた。
「ああ、やっぱりね。このままうまく行くはずないと思ったわ」
このドラマもベタね。尚美は大きくため息をつくと、窓を閉めながら天井を見上げた。隅の方で蜘蛛の巣がヒラヒラと一本揺れている。
顔の皺やシミといい、台所の洗い物といい。都合の悪いものは見て見ぬふりをしてしまうのは、歳を取った証拠だろうか。
「今日は満月か」
振り向いた時に感じたクリームシチューの匂いがちょっと前の独り善がりの自分を恥ずかしく思い出させる。尚美は、窓の横にある化粧ポーチに手をかけた。
尚美も昔はこのテレビドラマのように、スーツを着てバリバリ仕事をして、狭いけどお洒落なマンションに一人暮らし。そんな生活を夢見ていた。
それが、いつの間にか幼稚園の先生になっていて、昔の男と出会い、男の実家で同棲をはじめていた。そして結婚、質素なアパートに二人で引越し。今は月に二回ほど子供向けイベントの司会をやっている。子供はまだいない。
不満があるわけじゃないけどなにかが違う。
尚美はため息をつきながら膝を抱えて座り込んだ。
「じゃあ、なんで結婚したのよ」友達は声を揃えてそう言う。
え、だって、彼に体を預けたのよ。一生面倒見てもらうのが当然じゃない。
「今は時代が違うのよ。体の関係なんて、女でも片手くらいの人数は普通でしょ」
一度他の男と関係を持った女なんて、誰が相手にするの?それを笑って許す男なんてその程度の男なのよ。そんなのに興味ないわ。
それなのに。
尚美はまたひとつ大きくため息をつくと、磨き上げた爪が並ぶ足にトゥーセパレーターをはめはじめた。ガサガサの手が、足の爪の美しさを更に惹きたてる。
晋一郎はそんなだらしない女を選ぼうとした。
その女の手の爪に施されていた三日月のネイルアート。一つだけ光るラインストーン。
そんな綺麗な爪を見てしまったから、その中に美しく輝く月を見てしまったから頭に血が上ってしまったのかもしれない。
朝起きてご飯を作って見送って。洗濯をして掃除をして時々買い物に行って。情報番組を見ながら洗濯物を取り込んで畳んでアイロンをかけて。夕飯の準備をしながら夕方のドラマを見て、お風呂の湯加減を気にしつつ何回も窓から外を見ながら晋一郎の帰りを待つ。
毎日、毎日。同じことの繰り返し。その繰り返しでボロボロになったこの手。
そう、この手にはもうどんなマニキュアも似合わないの。単純な日々過ぎて毎日の月の満ち欠けもわかるのよ。気付かないわけないじゃない。夫のちょっとした変化。
尚美は、震える手で化粧ポーチからブラックのマニキュアを取り出した。
一筆塗るたびに真っ黒い空にゴールドのラメが広がる。強いシンナー臭が部屋中に広がり、クリームシチューの匂いや生活臭を次々と消していく。
そして、親指の爪に三日月に象られたラインストーンを貼り付ける頃には、妻ではない女の部分だけが残った。
やめてよ。そんなの許されるはずがないでしょ。わかってる?その女はもう汚れているのよ?二度汚れた女は、その後は何度汚れても平気になるの。そんな女を選ぶの?やめて、やめて!私の質が落ちるじゃない!
化粧ポーチが宙を舞い、床を叩く音が部屋中に響き渡る。足の爪の三日月が鈍く女の輝きを放つ。
ブブブブーッ ブブブブーッ
キッチンテーブルに置いてあるスマートフォンがマナーモードでメールを受信した。尚美は、ペディキュアが触れないようにそっと踵で歩く。
「今夜は満月だったわね」
あの女には、メールアドレス以外何も教えなかった。何かあったら困ると思い、恐くて言いたくなかった。
だって私、妻であることを振りかざして裏であらゆる嫌がらせをしてしまったもの。
あの時の、あの子供たちの泣き顔が忘れられない。私が仕掛けた罠にまんまと嵌って、女と子供を陥れたあの男が許せない。
そして。あの男の妻である私が、女として許せない。
足の爪の三日月が、女の輝きを増していた。