獣道
オヤジが泣いた。
「なんだよ。オヤジだってそんな時があっただろう?」
「まあな」
スマホから、吐く息が混ざった力ない声が届く。
「やっぱり。そうだと思ったよ。オヤジも隅には置けないなぁ~」
一瞬間が空いて。次の瞬間。
「おまえは………どうしておまえはいつも自分勝手なんだ」
そう震えているような掠れた声が聞こえてきた。
晋一郎は軽快に相槌を打ち電話を切ると、いきなりその場に蹲った。
枕から漂ってくる整髪剤と汗が混ざった臭い。地面から不快に伝わってくる冷蔵庫の音。夢じゃない。これは現実だ。
「電話終わったの?」
晋一郎は枕元にあった灰皿を弾き飛ばしながら起き上がると、玄関を通らずに庭から外に飛び出した。
俺は間違っているのか?
オヤジは泣いていた。
大学を中退した時も、脱税で捕まった時も。表情一つ変えずに背中を向けていたオヤジが声を出して泣いていた。
俺は運命の人を見つけただけなのに。やっと一番好きな人を見つけられたというのに。喜んでくれるどころかオヤジは泣いた。
オヤジ、あんた親だろ?息子の成長や幸せを一番に祝ってくれるのが親だろうが。俺が間違っているのか?女を道具としてしか見ていなかった俺が初めて自分が夢中になった人なんだよ。この人のためなら全てを失ってもいい、そう思えた初めての女性なんだよ。心から愛せる人に出逢えた。それなのに。
気が付くと晋一郎はつっかけのまま裏山の獣道を走っていた。
晋一郎には妻がいた。
相手の両親の反対を押し切って駆け落ち同然で実家に連れ込んだ妻がいた。晋一郎の両親は妻を実の娘のように可愛がり、妻は「早く孫の顔が見たい」と言う祖母の面倒をよく見てくれた。
おもしろい女ではない。連れて歩こうとも思わない。婚約指輪も結婚指輪もない。ただ、妻は他の男を知らない。晋一郎が最初の男であることがなにより晋一郎を安心させた。
石に躓いて両手をついた。苔の生えた斜面が崩れ落ち、ジンジンした膝に冷たさが染みてくる。
そうか、俺は妻を裏切ったのか。
「電話が終わったら話しがあるの」
さっき妻は洗濯物をたたみながらそう言っていた。エプロンのリボンの結び目が縦結びになっていた。相変わらず不器用なヤツだ。でもいつも一生懸命なのが伝わってくるからこいつはこのままでいい。
もし別れたら妻は田舎に帰るだろう。そうしたらもう一生会えないかもしれない。戸を開けると当然のように「お帰りなさい」と玄関まで小走りで来る妻の姿が見れなくなるのはなんだか淋しい。
手足が無性に痒くなってきた。見ると無数の蚊が手足にしがみついている。晋一郎は両手でそれを払い除けると、膝に手を押し付けながら今度はトボトボと歩き出した。まわりの緑色ひとつひとつが違う色にしなりながら左右に揺れる。
大好きになった女性には子供がいた。他の男との関係の結果がずっと彼女の側にいることになる。その子の存在が他の男との歴史を晋一郎に囁き続ける。それでもいい。そう決心したはずなのに。
膝にあてている手の甲に森の雫が落ちてきた。しかし、それは晋一郎の目から溢れ出ている涙だった。
どうして、どうして俺まで泣けてくるんだ。本当はどこかに迷いがあるのか?
誰もいるはずがないのに、茂みの向こう側から見られているような気がして慌てて涙を袖で拭う。その度に傷だらけの足が視界に入ってくる。
俺の心が『汚れている』だって?確かに今までの俺はそんな人間だったかもしれない。でもその女性と出逢って俺、変わったんだよ。
彼女と一緒にいると心から幸せを感じた。『100万回生きた猫』に出てくる白猫。そうだ!彼女はあの白猫なんだ!胸が弾むというのはこういうことなんだ。相手を想うってこういうことだったんだ。他の男の歴史なんてどうでもいい。一緒にいられれば。
出逢ってしまったんだ。もう離れられない。
なのに、なかなか言えない。
「俺、実は結婚しているんだ」
オヤジは泣いた。俺も今、泣いている。
畜生!どうしてなんだ!
晋一郎はつっかけを脱いで両手に持つと、獣道を駆け上がろうとした。しかし、息は切れ切れで思うように足が前に出てこない。夢の中で走っているように泥と一緒に足がずり落ちてくる。
「おにいちゃんだったらパパにしてあげる」
…俺が父親?
他人の子の父親になれるのか?いきなりだぞ?いきなり『はい、今日から父親やります』なんてできるわけない。無理だ。絶対無理。
いざという時は他人扱いするに決まってる。俺は家族になれずに孤立するのが目に見えてる。そんな孤独に耐えられるか?いや、それも無理だ。
その点、妻は一人。
俺以外だれもいない。俺だけを見ていてくれる。ずっと俺を待っている。理想的な関係だ。
でも、でも。
頭ではわかっているのに、心が彼女を選んでいる。彼女でなければダメだと叫んでいる。
畜生!どうしてなんだ!
俺は間違っているのだろうか。俺は迷っているのだろうか。
獣道はますます緑が深くなり坂も急になってきた。晋一郎の息もあがる。足も重くなる。
でも、もうもどれない。
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