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聖フランチェスコのプレセピオ

イタリア・グレッチョ、フランス・アヴィニヨン、オーストリア・ウィーン

11月末からのアドヴェント(待降節)になるとヨーロッパ各地の教会、クリスマス・マーケットにイエスの聖誕を再現したジオラマともいえる情景模型が設置される。
この模型は「プレセピオ(Presepio イタリア語、Presepeとも)」と呼ばれ、飼い葉桶を意味するラテン語"praesaepium"からきている。
13世紀前半にアッシジの聖フランチェスコが考えたといわれる。プレセピオは、フランス語では「クレッシュ(Crèche)」、ドイツ語では「ヴァイナハト(クリスマス)クリッペ(Weihnachtskrippe)」と呼ばれ、共に飼い葉桶を意味する言葉に由来する。

聖フランチェスコはローマの北約100キロメートルの地、アペニン山脈の山間の村グレッチョ(Greccio)で、人形を使ってイエスの聖誕を祝った。
伝説によれば、グレッチョは古代ローマ時代からの村で、ギリシア人(グレチャ Grecia, Grece, Grecce)の植民地、もしくはギリシア人家族が起源であったことから、グレッチョと呼ばれるようになったといわれる。
13世紀前半に聖フランチェスコが隠修した庵の周囲に、後に修道院が築かれた。

聖フランチェスコは1209年頃(あるいは1207年頃とも)から度々グレッチョを訪れ、現在修道院が立つ山中の岩盤を掘り、岩窟を庵として隠修し、観想生活を送っていた。
聖フランチェスコは、聖地に行きベツレヘムを訪問した体験から、丘陵地に洞窟が多いグレッチョにベツレヘムとの類似性を見出し、気に入っていた。
後日フランチェスコ会は、この地の領主から山間の土地を譲り受け、岩窟の周囲に修道院を建てた。
この地で聖フランチェスコがイエスの聖誕を祝ったことから「フランチェスコ会のベツレヘム」、「プレセピオの聖地(Santuario del presepio)」とも呼ばれるようになった。

1223年の12月、聖フランチェスコは聖夜の2週間前に兄弟にグレッチョで聖誕を祝うことを伝え、ベツレヘムでのイエスの聖誕を再現するよう準備させた。
12月25日の夜、兄弟たちとグレッチョの住民たちが山間の洞窟の岩場に飼い葉桶、牛やロバも準備し、聖誕の情景を再現した。聖フランチェスコが木偶の幼子イエスを抱くと生気がみなぎり活き活きとしたいう。

聖フランチェスコのイエスの聖誕の情景再現は、政治的なメッセージでもあった。
時あたかも十字軍の時代、当時グレッチョに近いリェーティ(Rieti)に邸宅を構えていた十字軍推進派の教皇オノリウス三世に聖フランチェスコは、聖墳墓のあるエルサレムを武力で奪回せずともイエスの聖誕を何処でも祝うことができることを示したという。

グレッチョからさらに約100キロメートル北に行くと、聖フランチェスコの生まれ故郷アッシジがある。
聖フランチェスコの遺体が安置されているアッシジの聖フランチェスコ大聖堂は、丘の中腹に地下墳墓礼拝堂、下階教会、上階教会と3階建てになっている。
その最上階の聖堂の壁面に初期ルネサンス期の巨匠画家ジオットが、聖フランチェコの生涯を連作壁画で描いている。そこには、グレッチョのイエスの聖誕の祝い、教皇オノリウスとの謁見などの様子も描かれている。

アッシジの聖フランチェスコ大聖堂

12月初旬からアッシジの聖フランチェスコ大聖堂の上階教会の広場を舞台に、大聖堂を借景にした壮大なプレセピオが展開される。
聖フランチェスコが十字軍の時代にスルタンたちを改宗させるためにエジプト、聖地まで赴いたことから、聖誕の情景模型に現地色を反映させる意図もあったという。比較的珍しいパレスチナ風の民族衣装を着たプレセピオが広場全体を舞台に拡がる。

グレッチョの無原罪聖母教会に隣接して、教会の回廊を利用してプレセピオ博物館が設置されている。
テラコッタ、岩石、石膏などのプレセピオ始め、素材が異なるプレセピオや民族色豊かな各種のプレセピオを展示している。

アッシジの下の町の小さき兄弟会の修道院でも、クリスマス時期にプレセピオの展覧会が開催される。
聖フランチェスコ所縁のポルツィウンコラ礼拝堂がある、天使の聖母マリア大聖堂に隣接する修道院の回廊を会場に開催される。
回廊中央には等身大の人物像、動物を配置した大掛かりなプレセピオ、回廊の展示場に日本を始め世界各国から贈られたプレセピオが展示される。

ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂の前の広場にも等身大の人物像を配置したプレセピオが造られる。
幼きイエスは聖夜に顕示される。大聖堂のクーポラ(円天蓋)、オベリスクを借景にした情景場面はヴァチカンのクリスマスでしか体験できない感動がある。

14世紀に教皇庁が置かれていた南仏アヴィニヨンでは、市役所のエントランス・ホールを会場に大掛かりな聖誕の情景場面が再現される。アヴィニヨンのあるプロヴァンス地方は、土偶人形のサントン人形で知られる。高さ2〜8センチメートルのサントン人形を約600体使い、岩山の麓にはラヴェンダー畑、ぶどう畑が拡がるプロヴァンスの村を再現した中に聖誕場面を持ち込んだ、オリジナリティに富んだクレシュだ。

12月に入ると、アヴィニヨンの中心地、旧教皇宮殿に近い市役所が立つ時計台広場(Place de l'Horloge)にサントン人形の屋台始め各種の屋台が立ち並ぶ、クリスマス市(Marché de Noël)が立つ。

クリスマスの翌日、12月26日はキリスト教社会最初の殉教者聖ステファヌスの記念日に特別ミサがある。
聖ステファヌスに献堂されたオーストリア・ウィーンシュテファン大聖堂で、聖ステファヌスが助祭であったことからウィーンの助祭約100名が参加する盛大な特別ミサが執り行われる。
イエスの聖誕のプレセピオが顕示された主祭壇に、約100名の助祭が立ち並ぶ記念日のミサは圧巻そのもの。

堂内の柱に設置された祭壇を舞台にもプレセピオが造られる。

14世紀に設立起源を遡る大聖堂の合唱団と楽団がミサ曲を演奏し、記念日の特別に花を添える。音楽の街ウィーンらしい聖ステファヌスの特別ミサは、さながら音楽ミサのようだった。


聖人録

アッシジの聖フランチェスコ

イタリア中部ウンブリア地方のアッシジの裕福な商人の息子として1181年に生まれる。本名は ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Pietro di Bernardone)であったが、父がフランスとの商売をしていた、あるいは母がフランス人であったためにフランス人という意味のフランチェスコと俗名が付けられたという。
若い頃は騎士に憧れ、隣村ペルージャの戦いにも参戦し捕虜となった経験もある。その後、南イタリアのプーリア地方での戦いへ参戦するために旅立ったが、途中スポレートで幻視もしくは神の声を聞き、アッシジに引き返し、洞窟などに籠って瞑想や祈りを行うようになった。
ある時、アッシジの丘の中腹にある聖ダミアーノ修道院の礼拝堂で祈っていた際に、顕示されていた十字架像がフランチェスコに語り掛け、自分の壊れた家(教会)を修復するよう告げたという。
当初、フランチェスコは壊れた教会堂を修改築していたが、それがキリスト教社会全体であることを悟り、福音の言葉を実践し、貧しい中で昇天したイエスに近づくために清貧に務めた。フランチェスコの周囲に仲間たちが集まり、托鉢して歩き、富める者から施しを受け、貧しい人たちに分け与えた。
彼らはお互いを兄弟と呼び、イタリア各地に宣教し、行く先々で新たな仲間を得た。自分たちの集団を自ら「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名乗るようになった。1210年、小さき兄弟団が12名になった時にローマに向かい、教皇インノケンティウス三世に会の許可を求めた。
1219年、フランチェスコは第5十字軍が滞在するエジプトに渡り、十字軍に戦闘の中止を呼び掛けたが、聞き入れられなかった。フランチェスコは従者と共にイスラムのスルタンの改宗も試みるが、不成功に終わった。その際に聖地エルサレムにも赴き、聖地巡礼を果たした。
1224年、アペニン山脈中のラヴェルナ山の岩窟での隠修生活中に、フランチェスコに十字架磔刑のイエスが現れ、聖痕(スティグマ)をフランチェスコに残した。終生聖痕を受けたことをフランチェスコは隠していたという。聖痕を受けた後、フランチェスコは体調を崩し、頭痛に悩まされ、ほぼ盲目状態となり、1226年10月3日、多くの兄弟に看取られながらアッシジのポルツィウンコラで帰天した。
帰天後、多くの人たちがフランチェスコの墓を詣でると、多く人たちから奇跡が報告された。帰天後2年という短期間で、1228年7月、教皇グレゴリウス九世より列聖された。
聖フランチェスコは、イタリア共和国、動物たち、自然環境保護団体などの守護聖人。


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