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若い職人たちを支える宿

Kolping Haus コルピング・ハウス

─ イタリア・ボルツァーノ ─

ドイツ語圏を中心にコルピング・ハウスと呼ばれる宿泊施設がある。
19世紀半ばに恵まれない職人たちを援護するために「職人協会(Gesellenvereins)」を築いた司祭「アドルフ・コルピング(Adolf Kolping)」が組織したコルピング協会が運営する宿泊施設だ。簡素な宿泊施設だが、清潔で何よりも一般のホテルより廉価なのでありがたい。いわば大人用のユースホステルでドイツ語圏を中心にヨーロッパに14軒ある。

「教会のある絶景」を求めて、北イタリアのアルプス南麓のチロル地方南部を旅した。
山麓の中心都市ボルツァーノ(Bolzano)で宿泊するつもりが、チロル地方はヨーロッパの富裕層に人気があり、あまりにもホテルが高いので、どうしようか逡巡していた時に、同地のホテルのリストに「コルピング・ハウス」の名前を見つけた。

一泊、ビュッフェの朝食付きで約100ユーロ。ポスト・コロナの物価上昇と円安のため円換算では1万8千円前後となり、決して安いとは言い難いが、他のホテルが200ユーロ(約3万5千円)以上。
コルピング・ハウスは、宿泊に最も重要な3S「Safty(安全)」「Sanity(衛生)」「Silence(静か)」を満たした宿泊施設チェーンであることを知っていたので、躊躇せず予約を入れた。

しかし、このホテルは一般のホテルと違い門限がある。
コルピング・ハウスに尋ねると、23時までにチェック・インができない場合は、当日、電話をして欲しいとの連絡があった。
コルピング・ハウスはボルツァーノ駅から徒歩10分の位置にある。私の乗るオーストリアからの列車は、22時15分ボルツァーノ駅到着だから大丈夫だろうと高を括っていた。ところがである。何と列車は、インスブルックで突然終点となり、1時間後の列車に乗り直さなければならなくなった。

インスブルック駅のオーストリア鉄道(OBB)の窓口に行っても梨のツブテ。
私は、携帯電話を持ち歩かない旧石器人間なので途方に暮れた。観光局に行くと、以前は駅の駐車場の入り口の壁に公衆電話があったはずだから、捜してみたら、との淋しい対応。何とか公衆電話を見つけたものの、3台の内の1台だけが使用可。
コルピング・ハウスに電話をして事情を説明した結果、施設の入り口に小さなロッカー箱があるからそこに鍵を入れておく、と言われたが、何せ?イタリア?と思い、おおいに心配だった。

23時半、ボルツァーノ駅に到着。コルピング・ハウスに着き、入り口横のロッカー箱に指示されたセキュリティ・コードを入れて、鍵と施設利用書を手にした時は旅の疲れも吹き飛んだ。
カード式の鍵でコルピング・ハウスの入り口の扉を開けると、エントランス・ホールで十字架のイエスが迎えてくれた。

誰もいないミーティング・ホールを通り抜け、指示通りに別棟に入った。
コルピング・ハウスは、主にカトリックの青少年、団体が利用するのでミーティング・ホールや集会所が充実している。

何処のコルピング・ハウスに泊まっても、部屋は飾り気がないが清潔そのもの。基本的にはカトリック教徒の宿泊が多いので、壁にはコルピンク・ハウスらしい簡素な十字架が。全室シャワーで、トイレも各室にある。

コルピング・ハウスは、カトリック教徒で流浪、遍歴をしながら学ぶ職人、青少年の社会、信仰支援を宿泊施設の目的としているので礼拝堂が必ずある。壁のステンド・グラスには、「宗教と労働は、民衆の黄金の大地(Religion und arbeit sind der goldene boden des volkes)」とかかれていた。

コルピング・ハウスから徒歩5分の旧市街の中心地に、12世紀に起源を遡るチロル地方南部の教区教会、「被昇天の聖マリア大聖堂」がある。

大聖堂の「慈悲の礼拝堂」の祭壇には、授乳の聖マリア像が顕示されていた。

中世のドイツ語圏アルプス山麓周辺で生まれたピエタ像、"聖マリアがイエスの亡骸を膝にのせ嘆き悲しむ"像が側廊に顕示されていた。

ボルツァーノはドイツ語圏、オーストリア文化の影響が強く、旧市街には清潔感のある瀟洒な街並みが続く。

イタリアでありながら、ソーセージのスタンドも。これもドイツ語圏の特徴?

ウィーン銘菓チョコレート・ケーキ「ザッハトルテ(Sacher Torte)」もボルツァーノの銘菓としてケーキ屋のショーウィンドーを飾っていた。

南ドイツ、オーストリアで良く食べるリンゴ・ケーキ「アップルシュトゥルーデル(Applestrudel)」も名物として売られていた。レストランのデザートにもアップルシュトゥルーデルはしばしば登場する。

イタリア北東部のチロル地方は、イタリア語とドイツ語の2か国語が使われている。住民の多くはドイツ語で生活している。
ボルツァーノ(Bolzano)」はイタリア語、ドイツ語では「ボツェン(Bozen)」となり駅名も2言語の表示。

コルピング・ハウスのあるアドルフ・コルピング通りも、イタリア語の"Largo Adolf Kolping"とドイツ語の"Adolf Kolping Strasse"の2言語表示。


聖人録

アドルフ・コルピング

Adolph Kolping

アドルフ・コルピング(Adolph Kolping)は、1813年、ドイツのケルン近郊のケルペン(Kerpen)で羊飼いの父ぺ―ター・コルピングと母アンナ・マリアの間に5人兄弟の4男として生まれる。
質素な家庭環境で小学校を卒業すると、靴職人の仕事を学び、見習い期間を済ませ、職人試験を受けた。
1829年から靴職人として職業遍歴をしながら3年間働いた。
各地を遍歴をしながら、職人たちの劣悪な環境、社会的地位の低さ、奴隷制のような搾取などを見て驚愕した。
アドルフ・コルピングは、22歳で職人への道を諦め、2年後高校に進学し、3年間半でアビトゥア(Abitur=大学入学資格)を取得した。
ミュンヘン、ボン、ケルンで神学を学び、1845年ケルンで司祭に叙階された。
1849年、青少年が遍歴しながら職業訓練し、社会に溶け込み社会的地位を得るための支援を目的に、「職人協会」をケルンで結成した。協会は、流浪しながら学ぶ職人たちに宿泊施設、学ぶ場、集会所などを提供し、病人のケアもした。
他の都市でも職人協会が形成され、コルピングが亡くなった1865年には、418協会に2万4千人の会員がいた。
アドルフ・コルピングは、学生時代から詩を書き、作家、ジャーナリストとしても活動し、「カトリック教徒カレンダー」を発行した。出版からの収益は職人協会の運営にあてられた。
若い頃から病気がちで、1865年12月4日、52歳の若さでケルンの「職人の家(Gesellenhaus)」で帰天した。
1991年教皇ヨハネ・パウロ二世により列福、福者コルピングとなった。
現在、列聖への申請中。

Kolpinghaus Bozen
A.Kolping Strasse 3
I-39100 Bozen/Bolzano
Tel 39 0471 308400
Info@kolpingbozen.it
www.kolpingbozen.it


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