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聖ペトロ大聖堂(前編)

Papale basilica maggiore di San Pietro in Vaticano


ローマに来ると、必ずと言ってよいほど訪れるのがヴァチカンの「聖ペトロ大聖堂」だ。ヴァチカン市国はもとより、イタリア国内にある教皇庁直接管轄の教会や遺跡、祭事の撮影許可を取得するための申請をする教皇庁の広報部は、聖ペトロ大聖堂前のコンチリアツィオーネ通り(Via della Conciliazione=”和解”通り)にある。許可が下りた後、感謝の祈りを大聖堂で捧げる。ヴァチカン美術館もしばしば訪れ、最後の鑑賞の場となるシスティーナ礼拝堂を出ると、聖ペトロ大聖堂の横となる。
聖ペトロ大聖堂は正式には「ヴァチカンにある教皇の聖ペトロ大聖堂(Papale basilica maggiore di San Pietro in Vaticano)」と呼ばれる。ローマの旧市街とヴァチカン市国を分けるようにローマの中央部をテヴェレ川が流れ、ヴァチカン市国はテヴェレ河右岸の小高い丘の上にある。

紀元64年(紀元69年とも?)、聖ペトロは当時ローマ郊外だったテヴェレ河右岸の小高い丘の上にあったカリグラ帝の競技場で殉教した。聖ペトロはローマ帝国の市民権を持っていなかったので、死刑の中でも重い十字架刑に処された。十字架刑に処される際に、イエスと同じ十字架刑では畏れ多いと、自ら進み出て逆さ十字の刑に処された。殉教後、禁教の中で改宗した信者たちによって秘密裡にヴァチカンの丘に葬られていたという。

コンチリアツィオーネ通りから見た聖ペトロ大聖堂。
この大通りは1929年、イタリア国家と教皇庁の”和解”を記念して造られた

ローマ帝国内でにキリスト教の信仰が認められた後、4世紀半ば頃、聖ペトロの殉教の地に教会堂が築かれていた。1502年、約1150年の歳月を経て老朽化した最初の聖ペテロ大聖堂があった場所に教皇ユリウス二世が新しい大聖堂の礎石を置いた。教皇ユリウス二世は野心的な教皇で、ローマ帝国の建築物のような、スケールの大きいモニュメント的な教会を望んでいたに違いない。教皇名が歴代の教皇でもなく聖人たちの名前でもない、皇帝ユリウス・カエサルに由来していることは何よりもの証だ。当初、建築家ブラマンテは縦横の長さが同じギリシア十字にクーポラを載せたプランを考えていたが、その後、画家ラファエロが現在の大聖堂より大きな縦長十字のラテン十字に変え、さらに老齢のミケランジェロによってブラマンテ案のギリシア十字に近い設計にし、17世紀初頭の建築家マデルノが現在の大聖堂の設計とした。設計プランは二転三転したが、約120年の歳月をかけて1626年、教皇ウルバニス八世(1623‐1644)の時代に現在の大聖堂が完成した。

大聖堂の完成後、17世紀半ばにバロック期の彫刻家ベルニーニによって大聖堂前に大きな広場が設計された。ベルニー二は、大聖堂を聖ペトロの身体と想定し、聖ペトロが腕を広げ、広場を訪れる人たちを抱え込むよう考えたという。広場には近年デジタル掲示板が設置され、大聖堂の開閉時間、ミサの時間を表示している。

ミケランジェロ案は、縦横同じ長さのギリシア十字架の中央にクーポラ(円形屋根)を載せた設計だった。ミケランジェロは古典建築の黄金分割比例を用いて、幾何学的に美しい壮大なクーポラを設計した。ミケランジェロはクーポラの頭部の完成を待たずして亡くなったが、計画は後の建築家たちに引き継がれ、完成した。後の建築家が中央の身廊部を長くし、ラテン十字の設計にし、ファサード(正面部)を手前にしたために、ミケランジェロの傑作と言われるドームが見難くなり、外観の迫力が薄れた。

16世紀末にシスト五世によって、広場の中央に殉教の記念としてエジプトから運ばれたオベリスクが立てられた。オベリスクはローマ帝国時代、競技場の中央に立てられていた。17世紀半ば、そのオベリスクを挟んで左右にベルニーニによって噴水が築かれた。ヴァチカン地域は水不足に悩んでいたが、17世紀初頭、ローマの北30キロメートルのブラッチャーノ湖から古代の水道橋を使ってヴァチカンへ水の供給が可能になり、噴水も作れるようになった。

大聖堂中央の入口上部に教皇が祝祭日に特別メッセージを送るバルコニーがある。その下のレリーフにはイエスが天国の鍵をペトロに授けている場面が彫られている。

聖ペトロ広場の後方に教皇庁(Curia Romana)がある使徒宮殿(Palazzo Apostolico)が立っている。12世紀から19世紀にかけて断続的に建築された複合建築体だ。

奥行き約216メートル(身廊は186メートル)、天井の高さ約45メートル、最大幅約156メートル、黄金に輝く天井の聖堂内に入ると、ただただ息を呑まずにいられない。洗礼盤を支える天使たちの頭は、人間の頭の2倍近くあり、身長も2メートルを越えようという大きさだ。大聖堂内には、11の礼拝堂と45の祭壇がある。

身廊を進むと、巨大なクーポラの下に主祭壇がある。主祭壇はベルニーニによって造られた「バルダッキーノ(baldacchino)」と呼ばれる青銅製の大天蓋に被われている。このバルダッキーノの高さは29メートル、10階立てのビルに匹敵する。この真下に聖ペテロの墓廟がある。

バルダッキーノの上を見上げると、ミケランジェロが設計した円形のクーポラの内側が見える。高さは約135メートルで二重構造になっていて、その空間に階段がありクーポラの頂きまで上ることができる。頂(いただき)のテラスからローマ市内を一望に見渡せる。クーポラを支える柱の上の部分の4つ角には、4人の福音書記家がモザイク画で描かれている。その一人、使徒聖ヨハネが持っているペンの大きさが2メートルですべて規格外の大きさだ。

クーポラを支える柱の下部4隅に、十字架の道行きの最中に汗をかくイエスの顔を布で拭った聖ベロニカ⑦、聖遺物の十字架を発見した聖ヘレナ⑧、十字架上のイエスの脇腹に槍を刺した後に改心した聖ロンギヌス⑨、聖ペトロの弟でイエスの最初の弟子、聖アンドレ⑩の像があり、その上の各小礼拝堂に聖遺物が顕示されている。

主祭壇の手前に地下への階段がある。聖ペトロの祝日に、特別に開けられる聖ペトロの墓廟への階段だ。聖ペトロをはじめ歴代教皇たち、大聖堂の地下の聖ペトロの近くに葬られることを望んだ世俗の王たちの墓がある。

階段の入口にイエスがペトロに鍵を与える像が顕示されている。下のレリーフの十字架は、上が長い聖ペテロの逆さ十字架。

右の階段の降口には聖ペトロ像
左の階段の降口には聖パウロ像

1939年に亡くなったピウス11世の墓を作るために地下を掘った際、初期教会時代の墳墓が発見された。考古学調査をした結果、聖ペトロの墓と断定された。一般にも地下墓廟は公開されているが、通常は身廊左手の別の入口から地下へ降りなければならない。

鉄の飾り格子の奥に聖ペトロの墓廟がある

年に数回、聖ペトロと聖パウロの祭日やクリスマスなど特別な日に教皇の司式で特別ミサが行われる。教皇司式の特別ミサは申し込みが必要だが、空席があると入堂も可能だ。ただし朝8時前には聖ペトロ広場の特別ミサのために入場口で並ぶ必要がある。

聖ペトロの祭日には、主祭壇の手前に顕示されている聖ペトロの像に司教服が着せられる。まさに聖ペトロ晴れの日の衣装だ。

聖ペトロ像は、13世紀のルネサンス期の彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオ作とされている。最初の大聖堂が築かれた時から旧大聖堂にあった4世紀の無名の作家の作品という説もある。長い年月の間、信者が大聖堂を訪れると聖ペテロの足や膝を触ったために摩耗している。どれだけの信者たち、巡礼者たちが触っていったことだろう。数十億人を数えるのでは?

大聖堂の一番奥、いわゆる後陣と言われる場所に、アラバスター(Alabaster 石膏または方解石の変種)に描かれた聖霊を表す鳩の下に4人の教会博士が椅子を持ち上げている像がある。17世紀にベルニーニが作ったカテドラ(Cathedra Petri)で、聖ペトロが座っていた木と象牙で造られた椅子(司教座)を青銅と金で包み込んだといわれる彫刻像だ。4人の教会博士、左から聖アンブロジウス、聖アタナシウス、聖ヨハネ・クリソストム、聖アウグスティヌスが司教座を支えている。

あまりにも見るものが多くて忘れがちなのが、ミケランジェロのピエタ像だ。大聖堂の身廊に入ってすぐ右奥の礼拝堂に置かれている。ピエタ像は若きミケランジェロがフランスのラグラーラス(Lagraulas)枢機卿に依頼された作品。ダンテの聖母マリアへの祈り「処女なる母、その息子の娘」に触発され、聖母マリアを死せるキリストより若く表現したといわれる。周囲の人たちに若すぎる聖母マリアを指摘されると、ミケランジェロは「永遠なる処女は永遠に若い」と答えたという。

18世紀半ばから現在の礼拝堂におかれるようになり、礼拝堂は以来ピエタ礼拝堂と呼ばれるようになった。聖母の胸の襷(たすき)に、ミケランジェロの作品には珍しく自身の名前「ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)」が刻まれている。

聖ペトロ大聖堂の柱や壁には、教皇の墓や聖人たちの彫刻像が顕示されている。主要祭壇手前の身廊右上部に聖フランソワ・ド・サール(François de Sales=イタリア語でフランシスコ・サレジオ)とドン・ボスコ(Don Bosco=聖ジョヴァンニ・ボスコ)の像が顕示されている。

フランソワ・ド・サール
ドン・ボスコ

大聖堂の正面入口のブロンズの扉には、ローマの守護聖人聖ペトロと聖パウロの生涯がレリーフで描かれている。
ローマ帝国時代、ネロ帝によって裁かれ官憲に捕らえられ、ローマ郊外トレ・フォンタネ(Tre Fontane=三つの泉)で斬首の刑に処された聖パウロ。

同じくネロ帝に裁かれ、官憲に捕縛され連行されてバチカンの丘にあったカリグラ帝の競技場で十字架の刑に処される聖ペトロの殉教の様子が描かれている。

毎週日曜日の正午、教皇様は聖ペトロ大聖堂の右にある教皇宮殿の窓から信者たちにメッセージを送る。日曜謁見は、一般信者、観光客も共に参加可能。外での教皇謁見は特別祭事の日以外は容易に参加できる。

日曜謁見には、世界各国の信者団体が自由に参加。教皇から我が教会、我が家の聖像に祝福をもらおうと持ち込む人もいる。教皇謁見は毎週水曜日に聖ペトロ大聖堂の左隣に建てられたパウロ六世の時代に建てられたパウロ六世ホール(Aula Paolo VI 建築家の名前から「ネルヴィ・ホール」とも)呼ばれる謁見ホール(Aula di Udienza)で催される。水曜謁見は事前の申し込みが必須。

【謁見事前申し込み受付窓口】
Prefettura della Casa Ponitificia (vatican.va)
https://www.vatican.va/various/prefettura/index_it.html

(後編に続く)

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