見出し画像

イエスに最も近い生涯を送った聖人

アッシジの聖フランチェスコFrancesco d'Assisi)は、自然が美しい緑豊かなイタリアの緑のハートと呼ばれるウンブリア地方のアッシジに1181年に生まれ、1226年10月3日帰天した。

聖人の生家に通じる小路。生家への小路への入り口門上部に聖人生誕のレリーフが

アッシジの町はスバシオの丘の中腹に東西に広がる。東の端れに聖キアラ教会、西の端に聖フランチェスコ教会が立っている。聖キアラ教会から旧市街の中心地、市庁舎広場(Piazza del Comune)に行く途中に現在生誕記念礼拝堂になっている聖フランチェスコの生家がある。

生誕記念礼拝堂内観。

聖フランチェスコの父ピエトロ・デル・ベルナルドーネはフランス南部のプロヴァンス地方から織物を輸入し一財を成した繊維業者。母はプロヴァンス地方の貴族の娘。フランチェスコと言う名前は"フランス人"を意味し、父が貿易で富を築いたフランス、あるいは母の祖国から命名されたと言われる。

聖ルフィーノ大聖堂の洗礼盤

フランチェスコは幼名をジョヴァンニ(Giovanni=洗礼者聖ヨハネGiovanni Battista)と命名された。ジョヴァンニは生後間もなく生家に近い聖ルフィーノ大聖堂で洗礼を受けた。後に父ピエトロはジョヴァンニからフランチェスコに改名した。聖キアラも同じ大聖堂の洗礼堂で洗礼を受けている。

聖ルフィーノ大聖堂の洗礼堂の壁画

フランチェスコの幼少期の詳細は知られていない。教会に付設された学校に通い、14歳の時に商人として働き始める。家業、繊維業者として父ピエトロを補佐して働いたのだろう。20歳頃に当時の若者と変わりなく騎士へ道を夢を見て戦争に赴く。当時のイタリア半島の町や村は皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)のいずれかに組みしていた。アッシジは皇帝党、近くのペルージアは教皇党に属していたために戦いが生じ、フランチェスコは捕えられ捕虜収容所に収監された。1年後、解放されたが、フランチェスコは第四回十字軍に参加するために南イタリアに向かう途中スポレート(Spoleto)で病に伏し、アッシジに戻った。

聖ダミアーノ修道院
聖ダミアーノ修道院回廊
修道院の礼拝堂。ここの十字架が聖フランチェスコに語りかけた
(現在掲げられている十字架は複製。実物は聖キアラ聖堂にある)

アッシジの旧市街の下のオリーブの樹々に被われた丘に聖ダミアーノ修道院がある。ここに朽ちた礼拝堂があった。1205年フランチェスコが礼拝堂に立ち寄り、祈りを捧げていると礼拝堂に顕示されていた十字架に磔られたイエスがフランチェスコに、「朽ちた教会を修復するよう」三度語り掛けたという。それを聞いたフランチェスコは聖ダミアーノ礼拝堂などを修築した。しかし、後に十字架のイエスが言った「朽ちた教会」とはカトリック全体のことと気が付き、教会の改革も意識するようになった。
後に聖キアラが聖ダミアーノ礼拝堂に隣接し、聖キアラ修道会を設立した。

天使の聖母マリア教会の身廊中央にあるポルツィウンコラ

天使の聖母マリア教会には、通常主祭壇がある場所にポルツィウンコラ(La Porziuncola)と呼ばれる小さな礼拝堂がある。フランチェスコが出家した時、この周辺は森林で、そこに4世紀に起源を遡る隠者の庵があった。後にベネディクト会の修道会が礼拝堂にしていた。それをフランチェスコが譲り受け、自らの庵《いおり》としてフランチェスコ会を設立した。ここで、出家してきた聖キアラ始め、多くの兄弟たちを迎え入れた。ポルツィウンコラはフランチェスコが修築した三番目の教会。聖人は、ポルツィウンコラの裏手で帰天し、その地には帰天礼拝堂がある。フランチェスコ、そして修道会にとっても、歴史的にも重要な礼拝堂だ。

ポルツィウンコラ内観と祭壇
天使の聖母マリア教会の修道院回廊の聖人とグッビオの狼像

1206年、フランチェスコは新人説教師としてアッシジの約30キロメートル北のグッビオ(Gubbio)の友人宅に逗留し、説教を始めた。グッビオには獰猛な狼がいて、家畜を襲い、人間まで狙い始めた。その狼をフランチェスコが飼いならしたと言われる。小鳥たちへの説教など、生きる物すべてを愛したいかにもフランチェスコらしい奇跡譚だ。

ローマのラテラノの聖ヨハネ大聖堂と聖人と兄弟たちの像。当時ラテラノに教皇宮殿が

1209年(1210年とも)、お互いに兄弟と呼ぶ仲間たちが12人になった時、フランチェスコは自分たちの活動を教皇に認めてもらうためにローマに向かった。フランチェスコと兄弟たちは、金品を受け取らず托鉢して得たものを食べていたために托鉢修道会と呼ばれていた。しかし修道士は托鉢を禁止され、さらに司祭でもない俗人が、説教することは問題視されていた。貧しい身なりのフランチェスコと兄弟たちに当初は冷たい教皇であったが、何度かフランチェスコに会ううちに口頭で小さき兄弟会の活動を認可した。

スティグマ(聖痕)を受けた聖フランチェスコ

フランチェスコの生涯のハイライトの一つがアッシジから北へ約50キロメートルほど行ったアペニン山脈の山中の庵で修行して際に、天使セラフィムが現れ、フランチェスコにイエスが受けた聖痕(スティグマ)と同じ場所、両手、両足、脇腹に聖痕をうけたことだろう。フランチェスコは聖痕を受けた最初の人で、以降主に女性が聖痕を受けている事例がある。

聖フランチェスコに別れを告げる聖キアラ

フランチェスコは厳しい修行、断食に近い食生活の影響か、健康を害し、聖痕を受けてからさらに健康状態が悪化した。

天使の聖母マリア教会。記念日の信者団体の入堂。

聖フランチェスコの記念日は、帰天の翌日(10月4日)。10月3日の夕刻に夕べの祈り、記念日には特別ミサが聖遺物が顕示されているアッシジの聖フランチェスコ教会と帰天の地、天使の聖母マリア教会で行われる。

天使の聖母マリア教会の記念日の特別ミサ
天使の聖母マリア教会内観。中央にポルチンコーラ、左手に帰天礼拝堂
帰天礼拝堂
帰天礼拝堂の内観。祭壇に聖人の修行鞭が顕示されている
アッシジの聖フランチェスコ教会。外部から侵攻を想定して城塞のような屈強な建物に。
聖フランチェスコ教会の上の教会
下の教会
最下層の霊廟礼拝堂

フランチェスコは、帰天の二年後、1228年に教皇グレゴリウス九世により列聖され、同時に聖フランチェスコの聖遺物を顕示する霊廟と教会の建築が始まった。教会は一見城塞のように屈強に見える。中世には聖人の聖遺物が極めて珍重され、聖人の聖遺物を守るために堅牢な建物になっている。上の教会、下の教会、霊廟のある礼拝堂と三層になっている。聖フランチェスコの聖遺物は秘密裡に葬られたために19世紀初頭まで存在が明確になっていなかった。1818年の発掘調査で初めて聖人の石棺が確認された。

中世には列聖までの期間が比較的短ったが、聖フランチェスコの列聖までの期間は短い。
聖フランチェスコは、貧しい人たち、自然環境保護、動物たち、イタリア国家、アッシジの守護聖人。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?