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ローマ 城壁外の聖パウロ大聖堂

ローマは古代ローマ帝国時代、重厚な城壁で囲まれていた。その城壁の外に聖パウロへ献堂した大聖堂が4世紀に築かれた。聖パウロは、斬首の刑で殉教した後、現在大聖堂が立つ位置に葬られた。城壁外にあることから「城壁外の聖パウロ大聖堂(San Pulo fuori les mura)」と呼ばれている。

中央に聖パウロ像が立つ城壁外の聖パウロ大聖堂の回廊風の前庭

近年、ローマ市内から城壁外の聖パウロ大聖堂へ地下鉄が通り、行きやすくなった。地下鉄B線でテルミニ駅、コロッセロなどの観光名所からも10分、15分。聖パウロは大聖堂から約3キロメートル南のトレ・フォンタネ(Tre Fontane=三つの泉)で西暦67年頃に斬首の刑に処された後、現在城壁外の聖パウロ大聖堂が立つ場所で埋葬されたとされる。

城壁外の聖パウロ大聖堂内観とブロンズの入り口扉

古代ローマ帝国時代、大聖堂が立つ地域はテヴェレ河の港湾地帯で、周辺は地下墓地ともなっていた。聖パウロの遺骸は貴婦人ルキーナ(Lucina)によってその墓地に葬られていた。そこは程なくして秘密裡に信者たちの巡礼地になっていった。

中央身廊の正面にはモザイク画が描かれた凱旋門(19世紀修復)、その奥に主祭壇と後陣

4世紀にキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は、聖パウロの記念聖堂を建てた。324年、教皇シルベスター一世により祝別された。4世紀末の3人の皇帝により大規模な教会が築かれたが、1823年の火災によりほぼ焼失してしまった。1825年、教皇レオ十二世が再建を呼びかけ、サルディニア王、フランス国王、オランダ君主なども多額の寄付をして再建工事が始まり、1854年、教皇ピウス九世により大聖堂が祝別された。

14世紀のバルダッキーノ(天蓋)の下の主祭壇の下に聖墳墓がある
主祭壇の前に聖ペテロが繋がれていたとされる鎖が顕示されている
聖パウロが繋がれていた鎖に拝礼する信者たち

主祭壇の前に聖ペテロの鎖が顕示され、信者たちは階段を下りて、間近で祈りを捧げることができる。

19世紀の火災から免れた後陣のモザイク
大聖堂身廊上部の壁には歴代の教皇の肖像が描かれている

聖人録

聖パウロ San Paulo

城壁外の聖パウロ大聖堂の聖パウロ像

パウロは紀元4年(頃?)現在のトルコ南西部のタルスス(Tarsus)でテント職人を父にユダヤ人の家庭に生まれた。ヘブライ語(ユダヤ)ではサウロは『尋ねる、祈り』を意味する。パウルスはギリシア語では『小さな』を意味する。パウロが育ったアナトリア半島(現トルコ)は、大ギリシア文化圏であったことからギリシア語圏だった。ダマスカスで召命後、ギリシア語を話すことが宣教活動に大いに役に立った。パウロの宣教地域、バルカン半島南部(ギリシア、マケドニア)、地中海東部の大半はギリシア語圏だった。パウロはエルサレムで神殿に非ユダヤ人を連れて来たことから批難され、捕縛された。パウロはローマ市民権を持っていたことからローマでの裁判を要求し、エルサレムに近いカイサイリア(Caesarea)でイタリア半島に上陸。アッピア街道(Via Appia)を通り、紀元後64年頃ローマに到着した。ローマでの滞在先は明確には分っていないが、ローマの南部のユダヤ人社会でローマの官憲に関しされながら滞在していたであろうと推測されている。紀元後67年、もしくは69年にローマ郊外で殉教した。
パウロはイタリア語、英語とフランス語ではポール(Paul)。
聖パウロはローマ、ラツィオ(Lazio ローマ周辺の州)、ギリシア、マルタなど数多くの国や都市の守護聖人。

ローマ郊外トレ・フォンタネの聖堂内の聖パウロの殉教

パウロは、現在ベネディクト派の修道院が立っているローマ郊外で斬首の刑で処された。石柱の上で斬首された後、パウロの首は三度跳ね、その地から泉が湧き出たということからトレ・フォンタネ(三つの泉)と呼ばれるようになった。

聖パウロの殉教に際し使われたという石柱(トレ・フォンタネ)
トレ・フォンタネの聖パウロ殉教の地に築かれた聖堂。右端に斬首の際に使われた石柱。
斬首の後、聖パウロの首が三度跳ねたその地に壁龕が築かれている

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