大江健三郎『死者の奢り』と町山智浩の「読解力」
最初に断っておくならば、ここでは樋口毅宏の『民宿雪国』には触れない。ただ祥伝社文庫に掲載されている樋口と対談している町山智浩の発言が気になったのである(初出は『映画秘宝』2011年5月号)。
町山は2004年のはてなブログ「アメリカ日記」でも2022年の「X」でも同じことを指摘しており、それらも読んだ上で思ったことを記してみる。
まず最初に『死者の奢り』はノンフィクションではなく、小説でありフィクションである。だから町山は鬼の首でも取ったようアルコールやホルマリンの揮発性の問題から、「死体洗いのアルバイト」などどこかで耳にした都市伝説から大江が適当にでっち上げた話だと難詰しているのである。
しかしその理屈を適用するならば、例えば「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を絶賛した批評家は全員物理0点」だって町山は言いたくなるのだろうか(笑)。
文学にしても映画にしてもフィクションとは「適当にでっち上げる話」であり、町山の意見は逆に話を適当にでっち上げられない評論家の言いがかりのように聞こえるのである。
では何故大江はそのような特異な状況をでっち上げたのであろうか? 主人公と一緒に死体処理のアルバイトをしている女子学生は実は妊娠しており、手術料を稼ぐためにアルバイトをしていると告白するのだが、地下室のタイルの上で転んだりして心は揺らいでいる。
その後、事務室の手違いで水槽の死体は全て火葬されることになっていることを知り、彼らが死体を新しい水槽に運んだり番号札をつけたりしたことは全て無意味だったことを女子学生が寝ている部屋に行って主人公は彼女に説明する。
死体に関して主人公が以下のように思っていたことを思い出そう。
女子学生の嗅覚は火葬することで失った《物》の緊密さを嗅ぎ取ったに違いないのだが、主人公も女子学生の、おそらく亡くなっており、取り出されればすぐに火葬されるであろう胎児の臭いを嗅ぎ取っているのである。つまり水槽の中の死体と女子学生の羊水の中の胎児をダブらせていると読む取るべきなのである。
ところでネット上の『死者の奢り』に関する感想をいくつか読んでみたのだが、「奢り」を「驕り」と勘違いしている感想が意外と多かった。「驕り」は「思い上がり」のことなのだが、「奢り」は「贅沢・奢侈」を意味するのであり、本作に関して言うならば、死者は生者のように厄介で面倒くさい存在ではないという意味で贅沢と形容されているように思う。