阿久悠の時代
舌津智之の『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫 2022.6.10.)は2002年に晶文社から刊行された単行本に加筆・修正を加えたものである。個人的には「Ⅱ 越境する性」の「6 ウラ=ウラよ! 異性愛の彼岸」のピンク・レディーの解説が秀逸だと思う。
ピンク・レディーは1976年8月にリリースされたデビュー曲「ペッパー警部」から、2作目の「S・О・S」から連続一位を記録した10枚目の「カメレオン・アーミー」まで作詞を担った阿久悠は女性の地位向上というよりもより過激にジェンダーの転覆を目論んでいたらしい。
そして11枚目の1979年3月にリリースされた「ジパング」でピンク・レディーはオリコン連続1位記録が途切れさせてしまうのだが、これは阿久悠の作家性よりも、既に全米デビューが決まっていたピンク・レディーのために名刺代わり(ジャパン)として制作されたような曲で、阿久悠がピンク・レディーでしたかったことは「カメレオン・アーミー」のリリース時点で終わっていたように思う。
実際にピンク・レディーは1979年5月にリリースした「Kiss In The Dark」でビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクしており、日本でキャリアを積んだ後からアメリカのミュージックシーンでここまで成功したミュージシャンは、1963年に「Sukiyaki」で1位を獲得した坂本九を除けば、その後松田聖子や宇多田ヒカルなど挑戦してみるもピンク・レディーほど上手く行かなかったのだから、かなり特異なことではある。
話は変わるのだが、よく秋元康が自分の作詞家の原点として1989年リリースされた「川の流れのように」を美空ひばりに歌ってもらったことで作詞家として認められたというコメントをするのだが、そもそも阿久悠は美空ひばりのようなメインストリームではないオルタナティブを目指したため、敢えて美空ひばりに歌詞を提供しなかったのであり、それにも関わらず作詞家として歴代2位の記録を保持しており、今後どれほど秋元が総売上枚数の記録を伸ばしたとしても阿久悠の日本国民に対する影響力には遠く及ばないであろう。