加藤典洋について ー 島田雅彦を巻き込みながら
相変わらず人気があるようで著書が次々と文庫で復刊され、今月も2014年に上梓された『人類が永遠に続くのではないとしたら』が講談社文芸文庫で再刊されている文藝評論家の加藤典洋(1948年生まれ)が亡くなったのは2019年5月16日で、すぐに例えば『すばる』8月号で「追悼 加藤典洋」として橋爪大三郎(「加藤ゼミの加藤さん」)、ギッテ・M・ハンセン(「Old Catoへ」)、長瀬海(「孤立を恐れない」)や、『群像』9月号で「彼は私に人が死ぬということがどういうことであるのか教えてくれた」というタイトルの高橋源一郎の論考が掲載されたが、どれも加藤との個人的な回想で、特に高橋は「加藤さんの後任として明治学院大学に奉職したのは二〇〇五年のことだった」(p.101)らしいので、誰も批評ができる立場にないのだから、ここでは取っ掛かりとして「数度お会いしたことがある」関係の東浩紀の『AERA』6月3日号に掲載された「加藤典洋氏が言った『人格分裂』 政治に必要なのは文学の言葉」と題されたエッセイの引用から始めてみたいと思う。
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加藤氏の業績は多岐にわたるが、もっとも知られているのは1997年の『敗戦後論』だろう。同書は、日本はいまだ敗戦を受け入れないでいる、その失敗が日本を一種の「人格分裂」に追い込んでいる、それゆえまず国内の死者の追悼が必要だと主張して話題を呼んだ。国内の死者と国外の死者、どちらを優先すべきかをめぐり、哲学者の高橋哲哉氏と論争も交わされた。
氏が指摘した「人格分裂」とは、要は歴史認識の分裂のことである。日本の半分は第2次大戦はまちがっていたと感じている。残りの半分は正しかったと信じている。日本は戦後、その分裂を放置したまま平和を享受し、その結果左右、国内外どちらから見ても中途半端な状況に陥ってしまった。同書の出版から20年以上が経つが、この指摘の重要性はいささかも減じていない。否、日韓関係が史上最悪の局面を迎え、改憲が現実味を帯びているいまこそ、立ち返るべき論点といえる。
歴史と慰霊は、いまや世界中で重要な論点になっている。その困難を「人格分裂」という言葉で抉り出した氏の議論は、じつに先駆的だった。
加えてここで忘れてならないのは、氏があくまでも「文芸評論家」として発言していたことである。『敗戦後論』は政治的な問題提起の書と受け止められた。しかし実際は文学論に多くの頁が割かれていた。氏は上記のような「分裂」を癒やすためには、政治の言葉だけでは不十分で、文学の言葉こそ必要だと考えていた。これもまた、政治がSNSの罵倒合戦に還元されつつあるいま、ますます重要な視点である。
政治は友と敵を分割する。文学はそれをつなぎなおす。政治と文学の関係は、文学者が特定の政治的立場を支持するといったものではなく、そのような本質的な補完関係でなければならない。加藤氏はその重要性を繰り返し訴えていた。
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「氏が指摘した『人格分裂』とは、要は歴史認識の分裂のことである。日本の半分は第2次大戦はまちがっていたと感じている。残りの半分は正しかったと信じている。」ということを真に受けて、例えば、一般的に先進国においては与党と野党があるという当たり前の認識に間違えて疑問を抱いたり、「人格分裂」の欠片も見せない北朝鮮を理想国家と見てしまったり、「氏は上記のような『分裂』を癒やすためには、政治の言葉だけでは不十分で、文学の言葉こそ必要だと考えていた」という意見も、「政治の言葉」のみならず「文学の言葉」まで学ばなければならないのだとするのならば、その重層性にますます日本国民の政治離れは進むだろうという危惧が生じてもおかしくはないと思うが、本論では『敗戦後論』は扱わないのでこれ以上の議論はしないでおきたい。
2019年6月16日付の毎日新聞の「この3冊」で西谷修が加藤の『戦後的思考』(講談社文芸文庫)、『9条入門』(創元社)、『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(筑摩書房)の三冊を挙げている。
加藤典洋は不思議な書き手だった。たとえばわたしの周囲では彼の仕事を評価する声はほとんど聞こえない。しかし、一般には戦後世代あるいは村上春樹世代の代表的批評家と目されている。だが、まさにその落差のうちに批評家としての加藤の「主戦場」があった。
加藤がこだわったのは、戦後日本の知的な分裂を反り合わない癒合としてとらえ、その「捻じれ」た言説状況を身をもって引き受けるということだった。それが加藤にとっては、日本でものを考え表現する者としての責務でもあった。
そのことへの無理解から、とりわけ彼はいわゆるポストモダン派からも正統左派リベラルからも厳しく批判され、あるいは揶揄され、長い間孤立した闘いを続けることになった。しかし、まともに顧みられることの少なかったその闘いを、加藤は絶望とは無縁に、粘り強く、愚直なまでにやり抜いた。しなやかな言葉で独特の論理を磨きあげながら。
その到達点は一九九九年の『戦後的思考』の濃厚な議論に見ることができる。それから二十年、遺作となった『9条入門』を紐解くと、帯の大袈裟な惹き句につまずいて、相変わらずだと思う向きもあるだろう。だが、そう思う人は加藤とはついぞ無縁だったと言うほかない。いわゆる左派リベラルがナショナルなものの拘束をてんから引き受けない、彼言うところの「欺瞞」のありようを、ここでもまた透明感をました柔軟な手つきで洗い出している。
たしかに加藤は時代の変容を感じとり、それを独自の論理で表現した。ちょうど「平成」になる手前で、島田雅彦のデビュー作を入口に、起こりつつある世界の地滑りを蝕知するように論じたのが『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』だった。「戦後」が名実ともに液状化してゆく時代の予感に満ちたこのタイトルはカフカから借りたものだが、その言葉どおりに彼は三十年をかけて「世界に支援」しようとしたとも言えるだろう。
「戦後」をめぐる議論はこうしてついに彼のライフワークになったが、彼が「ほんとう」を求めて議論を深めているときに、世界はその足元をすっかりさらう「ポスト真実」のフェーズに入ってしまった。そのことを彼は感じ取っていただろうか。
実は加藤自身が2008年9月1日付の毎日新聞の「私の3作」の一作として『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』を挙げており、書かれるに至った経緯が明かされている。インタビュアーと構成は大井浩一である。
この妙に長い、しかし印象的なタイトルの本は1988年に刊行された。「『アメリカ』の影―高度成長下の文学」で本格的なデビューを果たした6年後になる。最初の評論集『アメリカの影』は85年に出て話題を呼んだが、同じ年に書いたのが表題作になるエッセー「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」だった。
そもそも島田雅彦著『優しいサヨクのための嬉遊曲』の文庫版解説として執筆したものだ。これを当時、同じ出版社から出ていた文芸誌『海燕』の編集長だった寺田博氏が高く評価し、異例にも文庫刊行に先立って『海燕』に掲載されることになったという。
加藤さんより10歳余り年少の島田氏は、80年代の青年にとって初めて現れた同年代の作家だった。ただ、パロディーを駆使した個性的なスタイルの小説には、共感する一方で戸惑う面も多かった。この新しさをどう受け止めればいいのか、と。それを解き明かしたのが『君と世界の…』だったといえる。
自身はこの時期の仕事について「カナダで3年半過ごした直後に書いた『アメリカの影』」は、いわば外にいる人間の目で日本を見たもの。それとは逆に『外からの目』を禁じ手にし、内側に入り泥にまみれてやってみようという意識があった」と振り返る。
実際、「君と世界の…」は直ちに反論を浴び、論争になった。80年代に際立ってきたサブカルチャーの隆盛、つまり島田氏の世代の感性に他ならない「軽薄短小」の文化状況(=世界)の中で、文学(=君)が生き残るとしたら、どのような道を選ぶべきか。この問いに、「軽薄短小に軸足を置く以外にない」と答えたのが加藤さんのメッセージだった。「この時の直観は今も変わらない」
至極まっとうな姿勢といえるが、当時は消費を中心とする大衆社会への移行が本質的なものかどうか、判断は分かれた。「今起こっている変化は軽薄に見えるが、決して根の浅いものではない。これにコミットしよう、賭けようという気持ちがあった」それは加藤さんがその後、数多く重ねることになる論争の最初ともなる。
なぜ時代の変化に的確に反応できたのだろう。
加藤さんは70年代から80年代初頭の一時期を海外で過ごした。ちょうどこの間に、村上春樹、高橋源一郎の両氏ら新しい文学の潮流を示す同世代の作家たちが登場する。その場に居合わせなかったことが帰国後の印象を鮮烈にもし、かえって冷静に状況をとらえさせたと映る。
「二人の文章のスタイルに表れていた気分は、アメリカ文学のものだった。文学という営みが意味を持つとしたら、アメリカ文学の軽い文体に象徴される新天地で自分の力を試し、自分を鍛えるしかないという気がした。それは希望を持てるイメージだった」
実は「君と世界の…」というフレーズは、カフカの言葉から取られている。全共闘運動に参加し、挫折した一人である加藤さんは、学生時代にこの言葉に出会った。だから「世界」とは、かつての闘争では決定的にすれ違った大衆の別名でもある。「君と大衆の戦いでは、常に大衆と一緒にいる。ただし単に大衆に同伴するのではなくて、常に大衆との間に緊張=戦いがあったまま、ということ」
戦後最大の変化は高度経済成長とされるが、むしろ大衆社会が文化をも覆いつくした点にこそ本質的な変動はあった。今は常識ともいえる認識は、この時期、敗北を苦くかみしめ得た人々によって、辛うじてつかみ取られたといえるのかもしれない。
以上の基本情報を基にここでは公私共に評価の高い「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」を通じて加藤典洋の批評を批評してみたいと思う。
「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」は島田雅彦のデビュー作『優しいサヨクのための嬉遊曲』の福武文庫版(1985年11月15日発行)解説として書かれ、「島田雅彦再説」という副題もついているが、引用文でも指摘されているようにこの解説は1985年12月号の『海燕』が初出である。その後、小説は2001年7月に新潮文庫で刊行され、2013年6月に『島田雅彦芥川賞落選作全集 上』として河出文庫から刊行され今でも辛うじて紙媒体で読むことができる。そんな『優しいサヨクのための嬉遊曲』の粗筋を紹介しておきたい。
主人公の千鳥姫彦は大学で外池を代表とした「反体制運動」のサークルに所属し、自ら「変化屋」と称し、「革命のせこいやつ」をしている。その緩いサークルは発足してから二年が経過しており、他に井原、和泉、春田、日野、石切、田畑、無理、ナオミ、チエコ、ヤナギを含む十二人のメンバーで構成されている。「反体制運動」といってもソ連の反体制運動を研究しているサークルで、物理学博士で反体制運動家のアンドレイ・サハロフを擁護するキャンペーンなどを計画している。肝心なことは日本で「ソ連」の反体制運動を支援しているという点であり、ここに既に安保闘争などの学生運動との違いがある。
千鳥はそんな「赤い市民運動」の傍らで、オーケストラ団員の逢瀬みどりに夢中で、勝手に処女だと決めつけて「バージニア」とあだ名をつけて積極的にアプローチを試みている。
他のメンバーで目立つ存在は無理で、無理はサークル活動の資金を得るために男性相手に体を売っているのである。
『優しいサヨクのための嬉遊曲』に関する最も有名な論文は加藤のものよりも、1986年7月号の「すばる」に掲載された磯田光一(1931―1987)による「島田雅彦という装置」、さらに同論文が収録され同年11月に刊行された『左翼がサヨクになるとき―ある時代の精神史』であろう。磯田の論考を『磯田光一著作集4』(小沢書店 1991年12月20日)からいくつか拾ってみたいと思う。
『優しいサヨクのための嬉遊曲』は、多くの芸術上の欠点を持つにもかかわらず、時代の文学表現のうちに一紀元を画した作品である。それは私が島田氏の思想をそのまま肯定し、島田氏に同調することを少しも意味しない。つくられた新しいエポックの意味するところを正確に認識し、その功罪を明らかにすることが、今日の批評のひとつの課題である、と考えるまでのことである。(p.319)
スターリン主義批判が時代の通念となり、それにもかかわらず、現存する社会主義国家がその呪縛のうちにありつづけるとき、もしこの主人公が古典的な正義感をなお持ちつづけていたとしたら、彼は正義への信念から運動に入ることもあり得たであろう。ところが正義への情熱が前時代ほど信じられず、それにもかかわらず青年の反抗が、〝左翼〟の風貌をとるとしたら、なかばゲームのかたちを承知で「性懲りもなく」サヨク運動をするしかない。昭和におけるマルクス主義の展開と帰趨に無知である主人公が、ただひとつだけ経験として知っているのは、「僕が六〇年代から七〇年代にかけて大学に来てたら、ひどい目に遭ったと思うよ。粛清されただろうな」ということだけである。(p.320)
(……)〝左翼〟が倫理的ストイシズムを要請したのにくらべて、〝サヨク〟はもはやそれを必要としない。(……)(p.321)
しかし『優しいサヨク……』のおもしろさのひとつは、〝無理〟という名の人物の登場にある。島田氏がしばしば人名に象徴性をもたせていることは、他の作品についてもいえることで、『優しいサヨク……』の〝無理〟は、「故郷を捨て」さらに「過去と親を捨てることに〈かっこよさ〉を覚え」ている男である。故郷や親が日常性のきずなで個人を拘束するとき、それを拒否する―あるいは少なくとも拒否するポーズをとる―ことは、その名のように〝無理〟をともなう。そして、こういう無理こそが、この小説のなかに導入されているただひとつのストイシズムの軸なのである。それでは〝無理〟がホストクラブの求人に応募し、ホモの相手をすることで大金をかせぎ、それをサヨク運動の資金につぎ込むという構図は、歴史的に何を意味しているのであろうか。
むろんこういう事態を一枚の風俗絵図として一蹴し、あるいは不快なものとして斥けるのも、ひとつの態度ではあり得よう。ところが〝無理〟は同性愛のパトロンを財源として利用することを考えるのである。
(……)
これを言語道断の行為、あるいは左翼運動の堕落とみることも、もちろんできるであろう。しかしいかに変容していようと、運動資金とその財源の問題は、大西巨人『天路の奈落』における麻薬密売の是非をめぐる問題にも、歴史の地層においてはつながっているのである。(p.322)
今読んでも『優しいサヨクのための嬉遊曲』という小説の批評として「理想的」な文章ではないかと個人的には思うのであるが、そう思わない人たちがおり、それが加藤典洋や富岡幸一郎(1957年生まれ)などの若手の批評家たちである。
加藤たちの、前世代の批評家に対する批判を加藤の『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(筑摩書房 1988年1月25日)から引用してみる。
まず、順序として、ぼくが富岡の「批評における内面」と題する時評に関し、同意できる部分を示し、その同意に立って、彼と認識の異なる部分を明らかにするというみちすじをとりたい。
富岡は、この時評文の中で、川西政明、磯田光一らの批評文を取りあげ、そこにそれぞれ、高所から「双眼鏡でも覗くかのように『文学の全体』を見わた」す姿勢、また批評の「事実」への一体化の姿勢を認めて、しかし、「すくなくとも、批評が文学現象を客観的に整理したり、類別したりする機能でないとするならば、つまり批評自体が言語世界において不確定な自分を生きるものであるならば、『事実』という場所に立って『文学の全体』を見通すような超越的な視点こそ、まず疑わねばならないのではないか」と述べている。(p.20)
読んで字のごとく7歳の違いがある加藤と富岡の間においても批評に対する意見の相違がある。加藤と富岡の批評の違いを加藤の発言から明らかにしてみる。
ぼくにこの言語世界の変質の批評界における現われは、富岡とは違ったように見える。一方に、ここに例示された(ものとしての)川西、磯田の批評文に見られる、いわば世界をオリることによって眺望のきく視点や事実密着の方法を手にし、それによって世界を、眼前にする文学現象を対象化する批評があり、他方に、世界変質をそのまま「不確定な自分」として身に受け、「マス文化、大衆文化」に自分の「孤独(内面)」を「追いつめられて」困難に耐える少数の優れた批評家がいる。しかし、現在の批評の課題ともいいうるものが、もしあるとするなら、それはどのようにしてか、この二者の対立構図を脱する点に求められるのでは、ないか。それは、浮動してやまない世界からオリることなく世界を対象化する批評であり、また、自分の「内面(孤独)」を「マス文化」から追いつめられた、その果てに世界を見出し、掴む、そのような言語表現であるというほかない。(p.22)
「世界からオリる」という言葉の意味がよくわからないが、ここでは「高みに立つ」と捉えていいと思う。つまり今までの批評家には確固とした判断基準があり、そのものさしによって小説の出来不出来を決めてしまえるのだが、今の批評家は小説家と同じ世界(マス文化、大衆文化)に生きており、「世界からオリる」ことも「高みに立つ」こともできないために、徒手空拳で言葉を紡がなくてはならないのであろう。ここに富岡の批評があるとするならば、加藤は自身を「この二者の対立構図を脱する」最先端の批評家とみなしているようである。なかなかの自信なのだが、面白くないのは富岡であろう。そこで加藤の「優しいサヨクのための嬉遊曲」の解説を巡って加藤と富岡の間で議論が起こったのである。
ここから議論はさらに細かくなっていくのだが、簡潔に述べるならば、「高みに立つ」ことがなくなった批評家は「マス文化、大衆文化」の中で自らの言葉をどのように扱えばいいのかということである。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」で引用された吉本隆明の発言の加藤の解釈を引用してみる。
つまり、ここに簡明な比喩を用いるなら、吉本は北極の氷が融けて、世界の水位があがり、いままで陸地だったところがいつのまにか大部分水没してしまったと、いっている。その領域を増しつつある海の部分と、日々広さを狭めつつある陸地の部分が、五対五、あるいは六対四で拮抗している間は、「社会」と人間の「内面」の対立は、現実的基盤をもっていた。しかし、水位がさらに上り、人間の「内面」が「社会」に九割九分まで浸透され、覆いつくされるというような事態を前にして、なおも、もし小説家が人間の「内面」(孤独)と「社会」の旧来の関係式に則って小説を書くとすれば、その小説は、彼の生きる世界の全現実の残り一分を覆うにすぎない。またそのように小説を書きながらもし小説家が、自分の小説は自分の生きる世界の全現実に立脚していると思いみなすなら、彼は、彼の眼前にひろがる世界からそれを意識せずに眼をそらし、同時に深い自己欺瞞におちいっていることになるだろう。
それではこのような状況の中で人間の孤独はどこへいくか。それは残る。しかしそれは人間のごく一部、九割九分の「社会」の浸透に追い詰められた一分の「内面」を覆うものとして、つまり、〝たわいのない孤独〟として、残るのである。(『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』p.7-p.8)
ぼくがいおうとしたのは、その「残りの一分」、「〇・〇一」がさらに極小になり、殆どゼロに近くなる、そのような所に、その逆転が生じ、フローベールの小説、カフカの小説はその逆転から彼らに掴まれたのではないか、ということである。(p.28)
内面は、いわば、言葉によって「言葉にならないもの」として存在させられているが、そのことにより、その構成素を「社会」(外界)に人質にとられているのである。(p.30-p.31)
このような議論の先にあるものは、例えば、フローベールの「ボヴァリー夫人は私だ」やカフカの「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉で、批評家の内面は否が応でも「社会化」されてしまうということである。
富岡は、このぼくのいう「社会」と「内面」の関係、「人間内面の社会化」という考え方を「ほとんど信用することができない」と述べている。また、現在の世界変質を「人間の『内面』が『社会』に九割九分まで浸透され、覆いつくされるというような事態」というぼくの言いように対しては、「これはどういうことなのか」、「不可解というほかない」と語っている。(p.32)
筆者も富岡の意見に全面的に同意するのだが、加藤が丁寧に反論しているので引用してみる。
彼(=富岡:筆者注)がいおうとするのは、一つには、「内面」と「社会」が、このように、一方が増えれば他方が減少する、そんな関係式のうちにとらえられることに果たして根拠があるのか、あるとすればそれは何か、ということであり、もう一つは、そもそも数量化できない人間の内面、社会を数的な比喩のうちに語る論理は「おかしな」ものというほかない、ということなのだろう。
前者について答えるなら、ぼくは、「内面」を「社会化されえないもの」として考えている。また、この「内面」と「社会」の関係式の根拠を、それが共に「言葉」に基礎を置いて通底している点に求める。こういうことで、ひとまず、その答えとしておきたい。
後者について答えれば、ぼくは、「内面」と「社会」が、形を持たず、数量化しえないものであるからこそ、それを語るために、意図して数量化しているという。ぼくも、言葉にならないものを言葉にし、本来拡がりをもたないもの同士の関係を拡がりをもつもの同士の関係のように思いみなす「虚偽」について述べた、ベルグソン『意識の直接与件論』緒言冒頭の言葉を、知らないわけではない。しかし、そのようにいうなら、先の比喩に行使されている「論理」は、けっして高次のものではないにせよ、高次のもの、低次のものを含めて論理とはそのようなもの、本来フィクションたるべきものである。論理の運用を人が誤るのは、その本来フィクションたるべきものを、人が、時に、実体視するからではないだろうか。(p.33-p.34)
筆者として恥ずかしい限りなのだが、本論の冒頭から、東浩紀の「氏が指摘した『人格分裂』とは、要は歴史認識の分裂のことである。日本の半分は第2次大戦はまちがっていたと感じている。残りの半分は正しかったと信じている。」という引用した文章に対して、「一般的に先進国においては与党と野党があるという当たり前の認識に間違えて疑問を抱き、「人格分裂」の欠片も見せない北朝鮮を理想国家と見てしまったり」と「フィクション」を実体視してしまっており、論理の運用を誤ってしまっていたことに気がついた。「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。」
しかしそれでも納得できなかった富岡は再度1986年3月号の『群像』において「『私小説論』の亡霊」というタイトルで反論したようで、それにも加藤は答えている。議論が多岐にわたってしまっているので、分かりやすくテーマを絞るならば、「加藤はカフカの言葉、『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』を引いているが、私にいわせれば批評はつねに、『君と世界の戦いでは、君に支援せよ』である。」(p.19)という富岡の発言にあるように、支援するべきなのは「世界」か「君」かの問題で、批評家としての加藤と富岡の立ち位置の違いがわかる。
加藤に拠るならば富岡は「内面の孤独」に立ち続けることが批評家の態度と捉えているが、加藤はさらに一歩進んで「不確定な自分を生きる」ことに懸けることが批評家のあり方と考えているようである。「内面の孤独」には「硬直の翳りを感得」(p.56)するが、「不確定な自分を生きる」とは「ぼく達は『言葉』によって『言葉にならないもの』を書き、『語らされ』ながら『語り』、また『語り』つつ『語らされ』て、いわば日々ものを書いている」(p.66)ということなのである。加藤よりも7歳若い富岡だが、どうしても「自分」に未練があって放棄できないという点においては磯田光一のような前世代の批評家と変わらないというのが加藤の意図だと想像する。
加藤の結論を引用しておきたい。
話を簡単にするために、以下二項対立的思考法を例にとろう。この思考法の拘束性から逃れ、これを批判するのに二つの方法がありうる。一つは、この思考法に自覚的にとらわれ、この思考法の力学に従って「不確定な生」に参入することを通じて、最終的に、この思考法によりこの思考法を内部から喰い破っていく、という方法である。またもう一つは、例えば蓮實重彦『物語批評序説』に良質な達成を見ているような、この二項対立的思考法を外側から、いわば超越的視点に立って批判するという方法である。後者のあり方は「言葉にならないもの」の真に迫る。前者のあり方は「言葉」の虚構性に徹する。しかも一方で前者は内在的、後者は外在的な批判のあり方という一面をもち、言葉をかえれば前者は「虫瞰的」、後者は「鳥瞰的」である。(p.67)
以上の議論を踏まえた上で、磯田光一に対する加藤の批判を抑えておきたい。まず1985年6月号の『すばる』に掲載された磯田の「ある理想主義の運命―大西巨人『天路の奈落』をめぐって」の一部を引用してみる。
私がこういうことを書くのは、一九八三年~一九八四年にあらわれた文学作品を通読しながら、大西巨人『天路の奈落』と島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』との断層の大きさを痛感せざるを得なかったからである。前者を、中野重治の系譜につながる漢字の「左翼」の最後のかがやきと見、後者を結果としてのそのパロディにあたるもの―すなわち片仮名の「サヨク」というかたちでしか左翼をえがき得なかった作品―とみるとき、その両作のあいだに横たわっている断層は、ほとんどうずめる余地のない文化の断層を思わせる。漢字の左翼が、戦後派の作品を通ってやがて高橋和巳に継承され、その余光が桐山襲『パルチザン伝説』のうちに生きのびているとき、片仮名のサヨクは結果としてそれらを愚弄することにおいてしか、自己に出会うことができない。前者からみれば、後者は度しがたい軽薄な兆候とみえ、後者からみれば、前者はこっけいなアナクロニズム以外のものではあり得ないのである。(『磯田光一著作集4』p.211)
次にこの磯田の文章に対する加藤の批判を引用してみる。
磯田が大西と島田の小説に興味深い「文化の断層」を見るのはよい。しかしこれに加えて、もしその「文化の断層」の〝意味〟にも触れようというのなら、磯田はこれを指摘すると同時に、なぜこの「ほとんどうずめる余地のない文化の断層」をもつ二人の小説家の小説が、そのありようこそ違え、共にぼく達に訴え、また時にぼく達を動かしもするか、いわばその「文化の断層」を越えて通底するものに、着目しなければならなかっただろう。
磯田は、一方で島田の小説をパロディと呼び、「片仮名の『サヨク』というかたちでしか左翼をえがき得なかった」作品と形容する。また戦前左翼の文化風土(漢字の左翼、中野重治の系譜)が、戦後派、高橋和巳、桐山襲の諸作品のうちに生きのびているとき、片仮名のサヨクは、「それらを愚弄することにおいてしか、自己に出会うことができない」と書く。
しかしそうであれば、島田の小説は片仮名のサヨクという形でではあれ「左翼」をえがきえたのか。片仮名のサヨクは旧来の「左翼」を愚弄することにおいて、「自己に出会」っているのか。いや、そもそも片仮名のサヨクが「自己に出会う」とは何か。その「自己」、即ち片仮名のサヨク、これは―「漢字の左翼」が戦前左翼の文化風土だとすれば―現代左翼の文化風土だろうが、片仮名でではあれサヨクを名乗る以上、あの漢字の左翼、一向にはっきりしないながら大西巨人の小説に通じるらしいあるものに、連なる「自己」なのか、断絶する「自己」なのか。
彼はここでこうした問いに答えなくてはならないのだが、この問いはなくまた従ってこれへの答えは見られない。そもそも『天路の奈落』を小説として是とするのか非とするのか、『優しいサヨクのための嬉遊曲』を作品として肯定するのか、否定するのか、こういう問いに、磯田の批評は答えないのである。(『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』p.59-p.60)
改めて補足しておくならば、この加藤の論考が最初に発表されたのは1986年4月号の『群像』で、先に引用したように磯田が島田の小説の評価をしたのは同年7月号の『すばる』においてである。
ここまでは「加藤無双」の様相を呈しているのだが、いよいよ実際に加藤が執筆した島田雅彦論「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」を具体的に検証してみたいと思う。
まずは、加藤が島田の『優しいサヨクのための嬉遊曲』を論じる動機が書かれている部分を引用してみる。
もちろんぼくは、いまでは島田雅彦と切っても切れない、彼にまつわる紋切り型の評語となった観のある、あのパロディーという伝達方法について語っているのである。ぼくはこれまで、この小説家をめぐるパロディーという紋切り型の評価を、その凡庸さゆえに嫌厭してきたが、この語を紋切り型の中から救済しない限り、島田雅彦の小説がいまぼく達にたいしてもつ意味の全体性は、掴めないように思う。この通俗的な評価の手がかりなしに、むしろこのような評価の仕方に抗して、島田の小説に湛えられたある痛切さの印象は、いいあてられると考えたとき、おそらくぼくは、いまぼく達の生きる世界について、島田より楽天的な見解の持主だったのである。(p.5-p.6)
ここまでは良いのであるが、引用文の直後の加藤の問いには驚かされる。
それではこのいまぼく達の生きる世界とはどのようなものか。(p.6)
ここから加藤は島田のテキストから離れて、吉本隆明の発言やタイトルにもなっているカフカのアフォリズムや「脚がそのまま靴になってしまう」ルネ・マグリットの作品(おそらく『赤いモデル』)、ボードレールの言葉、スタンダールの小説を取りあげて論じているのであるが、磯田のような古い批評のスタイルを批判していたのだから、驚くことではないのかもしれない。
加藤は島田の作品の「パロディー性」を正当に評価しようと目論んでいる。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」と言いだした手前、島田の小説が独特のものではなく既製の小説をなぞったものでなければならないのである。ラストでフローベールの『紋切型辞典』で閉めることで上手くまとめているように見えるのだが、次の引用文にはやはり驚きを禁じ得ない。
また、ビートたけし、井上陽水らの仕事から、絶えだえにぼく達が受けとるのは、どんなに突飛にきこえようとも、やはりあのカフカの言葉、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という声なのである。
ビートたけしが「ブスは死ね!」という時、彼は「彼」と「世間」の戦いで、「世間」に支援しているのではないだろうか。(p.10)
ここで倫理を問うようなことはしないつもりだし、多少ウケを狙ってスベっていることをいまさら詰ることもしない。問題はビートたけしのギャグが取り上げられた理由にあるからだ。
村上春樹、高橋源一郎の小説と島田の小説を並べてみるなら、島田の小説は三者の中で最も、先にあげたビートたけし、井上陽水の仕事のもっている意味に近いところに位置している。それは言葉をかえれば、三者の中で最も「内面」の剥奪の度合いが徹底しているということでもある。(p.11)
しかしビートたけしの「ブスは死ね!」というギャグは「内面」の剥奪どころか、寧ろ本音を語っているが故に受けていた(?)のではなかっただろうか。
もちろんどのような論考であれ多少議論が粗い部分は生じてしまうものだが、かなり回り道をしながら加藤は最後の方でようやく島田のテキストに戻って来る。
「彼は愛を選んだ。〈お嬢さん〉になる道を極めようとした。それで、ハッピイエンドが近づくような気がした。(……)運動には国家殿の権力がおおいかぶさる。二人の愛には父殿の権力がおおいかぶさる。どちらも当事者にとっては理不尽この上ない。(……)
『ふふ、考えても無駄よ。考えるっていうのは悩むことなのよ。悩んだり、苦しんだりしたくなかったら考えない方がいいんですって』
千鳥の守護神、聖母、彼が入れるぐらいの大きさの容器=みどりはいった。それは千鳥だけでなく全人類をも救済しうる言葉だった。」
この最後の「みどり」のスリリングな台詞に触れて、ある評者は、これを読めば、この作者もいずれは悩まずにはすまないのだな、という予感がすると述べたが、この小説は、ここに来て、これまでのパロディーめいた千鳥姫彦の「ヘンカ屋」の日々が、彼の「悩みと苦しみ」の日々にほかならなかったことを明るみに出す。ぼくはこれほど痛切で、残酷な青春小説の終わりを余り知らない。(p.16)
それまで饒舌だった加藤にしては「ぼくはこれほど痛切で、残酷な青春小説の終わりを余り知らない。」と思う根拠が乏し過ぎると思う。せめてどの小説くらい終わりが痛切で残酷なのか示してもらいたかった。
しかし『優しいサヨクのための嬉遊曲』の肝は加藤が省いた部分にあるのではないだろうか。
運動には国家殿の権力がおおいかぶさる。二人の愛には父殿の権力がおおいかぶさる。どちらも当事者にとっては理不尽この上ない。(僕にはみどりしかいない。みどりが全てだ。しかし、みどりには余計なものまでくっついてくる。父殿だ。僕はそれを無視しようと努力したが、どうにも目障りだ。でも、今のところ勝つ見込みは乏しい)彼はこうも思った。(国家殿に踊らされるより、父殿に踊らされた方がまだ救いがある。みどりというパートナーがいるからな。愛し合っている二人は互いに相手の顔しか見えないもんだからな。彼女が服を脱げば、ますます、ほかのものはかすんじまうだろう。それならば、もう何も考える必要はない。ところが、あの運動をやって踊らされるとなると……僕はつい考えてしまう。いいパートナーもいないし、楽しみがない)(『優しいサヨクのための嬉遊曲』 福武文庫 p.154-p155)
ここで着目するべき点は、国家権力に煩わされないためにサークルを止めたとしても、女性と交際する上において彼女の父親という「権力」から逃れることはできないという、いわゆる当時流行った「構造主義」を問題にしているところだと思うが、何故かそこを指摘している批評家がいない。
そもそも主人公の千鳥姫彦が所属するサークルの「サヨク運動」は日本ではなく旧ソ連内の反体制運動に関わることなのだから日本国家に対する左翼のような関係はなく、だから「左翼」は平仮名の「さよく」ではなく片仮名の「サヨク」になったはずなのだが、そこを指摘する批評家も見当たらない。
1983年の島田雅彦のデビューは、それまでの1976年デビューの村上龍、1979年デビューの村上春樹、1981年デビューの高橋源一郎らの「アメリカ派」の台頭に対する「ロシア派」という意味合いが、おそらく本人の意図とは関係なくあったのだが、「ロシア派」の先輩として五木寛之はいるものの、多勢に無勢の上に1991年のソ連の崩壊により土台を失い、加藤を含めてほとんどの文芸評論家は勝ち馬に乗るかのように村上春樹を崇めだしたのだから島田は、それが成功しているかどうかはともかくとしても、スタイルを変えざるを得なかったと思う(その点、五木寛之は執筆活動を休止して龍谷大学に通ったりして仏教を学ぶことで、90歳を過ぎた現在でも連載を抱える人気作家であり続け、著書が売れないために大学教授にならざるを得なかった島田は雲泥の差をつけられてしまった。よく筒井康隆が冗談半分で文壇において「一人勝ち」と口にしているが、筒井よりも二歳年上の五木こそ真の一人勝ちのような気がしないでもない)。
加藤の『優しいサヨクのための嬉遊曲』の解説が作品をフォロー出来ていたのかどうかは怪しい。批評家としての加藤自身のプロモーションに堕していなかっただろうか。カフカのアフォリズムの翻訳がかっこよすぎて多少自分が書いた批評に酔っていた嫌いもある。因みに池内紀による翻訳は「おまえとこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。」(『掟の問題』 白水社 2006年 p.38)である。
とりあえず『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』がちくま文庫で復刊されるのを待ってみようと思う。