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遠藤周作『白い人』と童貞の勘違い

 遠藤周作は『白い人』(「近代文學」1955年5月号6月号初出)で1955年に第33回芥川賞を受賞している。
 ところで驚くのは1960年発行の新潮文庫の解説を書いている山本健吉がかつて遠藤と『海と毒薬』を巡って日本人の信仰について読売新聞紙上で論争したことがあり、本作においても「氏の主題があまりに図式的な形で、概念的に示されすぎていることを、欠陥と思っています。(p.165)」と書いており、『白い人』も『黄色い人』も評価していないのであるが、解説を依頼する際に遠藤本人が山本が執筆することを知らないということはあり得ないので、遠藤の懐の深さを感じさせる。

 ところで個人的な感想としては、本作はキリスト教の信仰とは関係ないように思う。第二次世界大戦が始まる直前、主人公のフランス人の青年はリヨンに住んでいる。斜視すがめで父親からもからかわれていた。母親には溺愛され、プロテスタントの家庭で育てられ禁欲主義を押し付けられ、『シンデレラ』や『アラビアンナイト』を読むことさえ禁じられていた。
 12歳の時、女中のイボンヌがしゃがみこんだ彼女の両脚の間に入ってきた老犬の首を押さえつけて右手でぶち始め、イボンヌの白い腿の強烈なイメージで肉慾と虐待の快楽を知ったのである。さらに偶然見た曲芸で、身体をエビぞりに湾曲させた少年の重なった足と頭の上にアラビアの娘が飛び上がって足踏みをしている芸を見て酷く興奮を覚える。
 アンリ四世中学校の最高学級生徒になり、大学入学資格試験バカロレアにも合格した後にカップルと知り合うのだが、たまたま同じクラスを受講していた神学生のジャック・モンジュは頭が禿げ上がっていて兎口みつくちで、ジャックの友人のマリー・テレーズもソバカスだらけで「体は固く青く貧しかった」。
 ナチ軍がフランス国境を越えて来た頃、主人公はリヨン占領軍の秘密警察部の独軍使役の通訳・事務員の仕事に就き、偶然母国側の連絡員をしていたジャックが捕らえら拷問されるのだが、なかなか仲間の名前や住所を言わないために、主人公のアイデアでマリー・テレーズも捕えて連れてくることになる。
 
 泣き止んでドアの下に崩れ落ちているマリー・テレーズのまくれたスカートから露わになっていた真っ白い太腿を見た瞬間、主人公はイボンヌの白い腿を思い出す。そして口を割らせるためにマリー・テレーズを犯そうとした矢先にジャックは舌を噛んで自殺するのであるが、その時の主人公の心情を引用してみる。

 そうか、舌をかんだのか、ほんとうに私はそれを予想していなかったんだ。自殺はカトリック教徒には、絶対におこなってはならぬ大罪であったからである。
(お前、神学生じゃないか、それなのにお前は、この永遠の刑罰をうける自殺を選んだのだ)
 悲哀にみちた灰色の海の上でしずかな腹だたしさが次第に荒れはじめた。
(意味がない。意味がないよ)と私は呟いた。(お前は自殺によっておれからのがれたつもりなんだろ。同志を裏切るべき運命やマリー・テレーズの生死を左右する運命からも脱れたつもりだろ。ナチも俺も、もう、マリー・テレーズをお前のために使うことはできない。だが、それがなんだ。お前は俺を消すことはできない。俺は今だってここに存在しているよ。俺がかりに悪そのものならば、お前の自殺にかかわらず、悪は存在しつづける。俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない。意味がない)

『白い人・黄色い人』p.83-p.84

 しかし不思議なことに上記の強気とは裏腹に主人公は何故かマリー・テレーズを強姦しない。主人公は肉慾を知り虐待の快楽も知っているはずで、主人公にとっては絶好の状況のはずなのであるが、何故マリー・テレーズを嬲り倒さないのか? 考えられる唯一の理由は、その時まで主人公は自分の性癖が「サド」だと誤解していた可能性である。実際、主人公はマルキ・ド・サドの言葉を引用しているが(p.9)、マゾッホのことは知らなかったのかもしれない。一緒くたになっていたから分からなかったのであるが、主人公は自分はイボンヌの、あるいはアラビアの娘の立場で興奮していると思っていたのであるが、実際その立場に立たされると興奮せず、自分は老犬の、あるいは少年の立場に興奮していたことに気がついたと思うのである。