19日本文学講義Ⅰ 夏目漱石

大沢正善 日本文学講義Ⅰ 1997 奥羽大学 記録尾坂淳一
参考文献/夏目漱石の全小説を読む 学燈社
参考文献/小森陽一 漱石を読み直す ちくま新書
(夏目漱石)

夏目漱石─自己本位から則天去私へ─
1、作家になるまで
生い立ち
夏目小兵衛直克、千枝の五男三女の末っ子として東京に生まれた。二歳弱で塩原昌之助、やすの養子に。養父母が離婚し八歳で塩原籍のまま実父母にひきとられる。二十歳で長男次男が病没したため翌年夏目家に復籍。その間に人間の複雑な愛やエゴイズムを知った。本名夏目金之助。恥かきっ子とされ里子に出されたことも。荒い気性、頑固をあらわす故事「漱石」。

漢語と英語
江戸町人の気風を受け継ぎ少年時代には漢語に親しんだ。しかし新時代に立身するために英語を学び帝大英文科に入学。いずれにも才能を発揮し、やはり多才の正岡子規に刺激されていくつかの習作を残した。

留学体験
大学卒業後、東京、松山、熊本で教師を歴任し、官命でイギリスへ留学する。日本人が英語の本場で英語を学ぶ意義について悩み、「夏目狂す」の噂がたつ。やがて英文学を日本人の立場から独自に見つめようと自己本位(利己主義でない義務)を発見する(「私の個人主義」大正三年十一月二十五日学習院)。それは文明批評にも発揮し思想的立脚点ともなったが、同時に明治期の知識人の課題でもあった。二年余で帰国。

東京帝大の教師として
帰国後、東京帝大の教師に着任し英文学を担当した。英文学概説の一部は「文学論」として刊行された。そこでは文学的内容をF(認識的要素)+f(情緒的要素)と定義し、英文学を個別的歴史的に記述するのではなく、心理学を採用しながら一般的な文芸哲学の樹立を目指した。本質に逆上しようとする性癖と教育機関の頂点に立つ重責とから苦刻をかさねた成果である。

意識の波→時代の焦点をとる作家=模擬
    →時代の先の波を感じる作家=能才
    →ずっと先の時代の波を感じる作家=天才
    =フィクションの重要性

F+f
Fありてfなしは三角形の観念
fありてFなしは理由のない恐怖(自然主義)

作家に専念するまで
親友正岡子規その死後には弟子の高浜虚子の依頼に応じて短文を発表していたが、「吾輩は猫である」以来旺盛に執筆した。「猫」や「野分」の系列には道義的精神(他人の自己も大切にする)が現れ、「倫敦塔」や「草枕」の系列にはロマン的精神が現れている。やがて作家に専念するために帝大を辞し朝日新聞社専属作家になり、「虞美人草」の連載で二系列の統合を試みた。

2、夢十夜
第一夜
「女」=百合か、星か=来たか、来なかったか
「赤」=唇、血、太陽=現世界
「白」=百合、金星(明星=太白)=次世界=手の届かない理想的女性

第二夜「腹立てる機」怒りをきっかけに悟る

3、草枕
非人情の世界
二十世紀文明を批判する主人公は「出世間的の詩味」を求めて温泉に投宿する。そこで絵を描き詩を作りながら世間を道徳や人情にとらわれない「非人情」の立場から眺め、西洋的な物我対立の「待対世界」を脱して東洋的な「物我一如」の絶対的世界に迫ろうとした。漱石のロマン的精神が高度に発揮された作品であり自ら「美を生命とする俳句的小説」とした。

憐れの美学
宿の美しい娘那美を絵に描こうとして悟りと迷いが統一されずに焦る不幸な顔を見つめ、神と人との中間の情緒である「憐れ」が欠けていることを惜しむ。やがて那美が夫が満州へ去るのを見付けて茫然とした瞬間、流れに身を委ねた「ミレーのオフィーリア」のような放心の憐れが達成されたことを知る。人情の世界に近づき作品が破綻したとも考えられるが、漱石はロマン的精神に定住できずに道義的に接近していく。

4、野分
白井道也の人格論─自己本位の思想─
自己は過去と未来の接点である現在を焦点的F(主題)として生きなければならない。又若い諸君は明治の初期と後期の接点である中期を生き、前後にとらわれずに自我を思いのままに発展させなければならない。そのために内部からわきでる自己本位の思想をもって社会とたたかいその事業によって評価されるだろう。
‐前期=全てつくらなければならない
‐後期=ものがありすぎる
‐中期=いちばん自由

白井道也の人格論─文学者の覚悟─
人間は聖愚、真偽、正邪の批判を誤らない正しい人格を養成すべきであり、それを行う自由を保証するのが道徳であり。また文学は人生そのものであり、文学者は社会生活の苦痛を克服しなければならず、その人格を正しく伝え道徳を擁護するために闘う覚悟が必要である。

冒頭「白井道也は文学者である」=文学者として覚悟を決めた人物

金権批判の挫折
白井は講演の後半で金銭的権力を乱用して他者の理想を圧迫することを批判した。一方白井に関わる二人の青年はそれぞれ理想を模索しているが良家の子息である中野輝一の思想と貧しく病さえ患った高柳周作の理想は噛み合わない。しかし高柳の療養のために中野が用意した百円が白井の借金を助けることで三者が噛み合う。この作品は金権批判を皮肉な形で挫折させ、白井の人格論を相対にしたことで、教訓小説から脱したが作為的な結末だという批判もある。

メインプロット(主筋)主題=理想で噛み合わない三人が金で噛み合う(金権に屈する)

副筋(サブプロット)としての愛の世界
中野は恋の煩悶が人生の意義を明らかにすると語り、その婚約者は現世に野分が吹いて愛を弄ぶと歌う。作者漱石は人格論や金権批判の主筋とは別に現世の外に「異様な生命」を感じうる愛の世界があり得ること(ロマン的精神)を描かずにはいられなかった。

5、虞美人草
悲劇と道義
結末て藤尾が自らの傲慢さから悲劇を招いたあとに甲野は日記に悲劇の哲学を解説する。死を捨てて生を選ぶところに人間的生があるが、その必要条件として相互に守るべく黙約するのが道義である。そのことを忘れて日々にあくせくする生活は全て喜劇であり、そこに安住する時悲劇は突然起こり人間を生死に直面させ、本来の面目に立ち返らせる。藤尾の悲劇は道義を無視した我執に対する自然の制裁だったのだ。この解説は作品の主題を自己解説している。
‐虞美人草のキーワード=悲劇
‐漱石のキーワード=道義、我執、自然

傀儡としての登場人物
藤尾は我の女として登場し自らの虚栄の毒に斃れるが、自ら本来の面目としての道義に目覚めて死を選んだのではない。 社会通人としての意識に罰せられる役を演じた傀儡にすぎない。同様に甲野さんは藤尾の悲劇を予期しながら手をさしのべず解説者に終始し、宗近君は道義を正々堂々と押し売りし藤尾を捨てて小夜子と結婚する。小野さんの改心はいともかんたんに行われる。登場人物はそれぞれ悲劇の生死の葛藤を自立的に生きることなく他立的に生きる傀儡にすぎない。華麗で劇的であるが古風な物語として批判される所以である。

藤尾の驕れる美
傲慢な藤尾は道義に照らして罰せられるべき人であるが、誰よりも傀儡的役割を生き生きと生きた。その描写で美文体と比喩に装飾されていかにも傲慢である。そして死後になって傲慢な眼は閉じられ天女のような美が描かれる。美が傲慢に活動した時の危険性を暗示あるいはそう活動してしまいがちな美の謎を暗示しているのだろうか。甲野さんも冒頭で「遥かなる国」への憧れを洩らしていて、この作品でも道義的精神とロマン的精神は平行したまま止揚されていない。
‐藤尾と紫=役割を固定「特徴」→その人物が発展することはない

6、三四郎
予告編
田舎の学生が東京に出て人にふれいろいろ動く。作者や読者の手を離れ話は進んでいく。尋常で摩訶不思議は書けない。

三つの世界
主人公の小川三四郎は九州から上京し、動く東京の中で三つの世界が出来たと感じる。一は平穏であるが活気がなく脱出してきた故郷で母が代表し、二は東京の中で静かに動く書物の世界、学問の世界であり広田先生と野々宮さんが代表する。三は恋愛と青春が渦巻く華やかな世界でよし子と与次郎と里見美禰子が代表する。三四郎は様々な体験を通じてそのいづれかにアイデンティティを模索する。

青春小説として
三四郎は三の世界に身を投じ、特に美禰子に好意を寄せるが失恋に終わる。しかしその過程で野々宮さんとの関係論的心理や美禰子の媚態を発見し、又与次郎を的確に批評しはじめ、広田先生や語り手の思想の傀儡としてではなく自立的主人公として成長し生成的には青春小説となった。三四郎の視点からの一元的描写や美文体に装飾されない言文一致的文体もそのことを保証している。
 野々宮さん=関係論的心理
 美禰子=本質論的認識
  →「野々宮さんによって美禰子も三四郎も変わる」

 三角関係=世界的ロマン、社会の最小単位、

 語り手=緩い操り方→やがて三四郎と一体化「野々宮君」→「野々宮さん」(三四郎の視点に)

 視点=一人称視点「吾輩は猫である」
   =三人称視点=全知視点「虞美人草」
         =限定視点「三四郎」
         =客観視点

ストレイシープ
菊見に出掛けて三四郎と美禰子は先に出てしまう。彼女は自分達をストレイシープと呼び、探しに来ない野々宮達を責任を逃れる羊飼いに例えた。一方広田はかつての青年は他人本位に行動する偽善家だったのに対し近頃の青年は自己本位に行動する露悪家であり、最近では偽善を行うのに露悪を以てするような複雑な状態にあると分析する。美禰子も時折それを自覚し「霊のつかれ」や「肉のゆるみ」を垣間見せる。動く東京君中で自己実現に奔走する青年の群れからはぐれる者がストレイシープなのである。
‐「文学雑話」三四郎連載中「無意識の偽善家」=天性で男を虜にする(悪気がなくても相手を傷つける)

反青春小説として(三好行雄)
三四郎が美禰子と最初に出会う場面は彼女が絵(青春の記念)のモデルになりはじめた時期だった。それは彼女が既に市井に生きる「立派な」男との結婚を決意していたことを暗示するだろう。つまり美禰子が野々宮が住む第二の世界の傍観者的無責任を、自らも住む第三の世界の青春の迷羊の中にも気が付き、それは三四郎の田臭の純粋な束の間の恋愛をしたがやはり絵の完成とともにいずれからも身を引いたのだろう。この作品は41歳の作者が弟子の世代を迷羊として批評的にながめた反青春小説として読むこともできるだろう。
‐三四郎に渡した三十円=結納金の一部か=金で男性を買ったようにもみえる

第四の世界
三四郎は上京の途中に音信不通の夫をもつ女と乗り合わせ、東京では女の轢死や子供の葬式に会う。それらは第一の世界の安息とは別種の第三の世界の底辺にあり、市井の生活という第四の世界を暗示している。二十円の借金をめぐって露呈したように野々宮も広田も安月給に甘んじなければならず、美禰子も兄と離れて生きるため結婚し第四の世界へ去ったのである。(越智治雄、小森陽一)謎めいた女が市井に生きることを決意し、やがて三四郎も故郷にさえ帰らなければそうするだろうし、、作者のロマン的精神と道義的精神はようやく噛み合った。
‐二十円=野々宮・広田・与次郎←三四郎←三十円美禰子=野分での百円

モデル
小川三四郎 小宮豊隆
野々宮宗八 寺田寅彦
里見美禰子 平塚雷鳥
広田萇      漱石

メインプロット 三四郎
サブプロット  佐々木与次郎の運動の失敗

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐前期

7、それから
煤煙事件
森田草平は講師として女学校へ行き平塚明子(はるこ、平塚雷鳥)を知り心中未遂を起こし、世間の糾弾を浴びる。漱石は森田を匿い、森田に「煤煙」を連載させ名誉を回復させた。しかし漱石は平塚は無意識な偽善家ぶりと「煤煙」の恋愛の世紀末の人工的パッションを批判した。これらを「それから」で自然本能の発動としての恋愛を描こうとした。
「三四郎のそれから」

代助という典型
主人公の長井代助は文明開化の「生活欲」に振り回されて「道義欲」の崩壊した日本社会を醒め目で眺め「自己本位」を保持するために無感動と美的快楽主義を標榜する「遊民」として暮らしている。しかし三千代との愛を実現するために職業を求めて社会と格闘することになる。明治の知識人達が直面していた課題と運命を代表しながら道義と生活の平衡を求めて内省を続ける代助は苦悩の運命を自虐的に告白する自然主義的主人公とは別種の典型的人物として同時代に大きな影響を与えた。
‐芥川龍之介「手近にいそうでいない代助」

三千代との愛
日本社会の堕落に汚されない世界として抑圧していたはずの三千代への愛が前景する。代助の頭脳はあらゆる美の種類の鑑賞を都会人土の機能と考え「かわらざる愛」を偽善と考えていた。しかし彼のこころは三千代を一時的な鑑賞の対象とは感じなかった。代助はその「自然の愛」を実現するために遊民思想を放棄することを覚悟し、その挫折の原因が人妻を奪うことではなくかつて恋人をゆずった「義侠心」の偽善にあったことに気付き人間の罪の根深さにおののく。
‐武者小路実篤「友情」←義侠心

代助への愛「三千代の媚態」
百合の花=花瓶の水を飲む
    =「いつから嫌いになったの」
    =百合の中で告白
指環=嵌めてない
  =代助からの指環を出してくる

道義と自然
「虞美人草」では第一義の問題であった道義が「それから」では封建的な理想を押し付ける利他主義にまで矮小されている。それは人々が生活欲に冒されながらもそれに執着している偽善を批判したことであり代助は「精神の交換作用」において成立する論理的な道義を求めていることにかわりない。そのため物語の後半では道義の代わりに自然が多用される。それは自己に偽善のない態度を示す一方で運命や天意を示し、矛盾を含むが運命を偽善でなく誠実に受けとめる自己本位の態度と考えられ、以降漱石作品の重要なキーワードとなる。
‐生活欲が高いのに道義に執着
‐→道義が偽善になってしまった
‐→時代にあった道義の必要性

白百合と赤い焔
物語は知識人小説として始まり伏線を巧みに用意しながら恋愛小説へと姿を変える。両者は緊密に噛み合い以前からの課題であった道義的精神とロマン的精神の統合に成功している。物語は加速しながら悲劇へと近づくが二人の「幸(ブリス)」が現前する場面は白百合の香に包まれて純血と官能を両義的に喚起する。結末も職業を探しに出掛けた代助を「動く」世の中の赤い焔に包んで運命の困難と「愛の刑」を喚起する。ともに色彩を強調し「~た。」止めを反復し表現上でも悲劇を高揚させている。

8、門
市井の夫婦愛
しばらく「三四郎」で暗示された第四の世界である市井に生きる夫婦の平凡でしめやかな愛が描かれ発表当時はこの側面から評価された。子供がなく「家」を前提にしない自立した夫婦像として作者の理想とも考えられる。叔父夫婦や弟との微妙な関係もそれを破ることが出来ない。(量にして三分の二)

過去の罪
やがて「それから」の代助と三千代を引き継いだかのような過去の姦通の罪(当時は姦通罪がある)がしめやかな夫婦の秘密であることが示され物語は二重化する。過去が場面を決定していくという時間的因果的な事件の物語であるより、発作、子供、姦通の記述を通して日常それ自体に罪が潜んでいる(原罪)かのように遡行的根元的発見の物語を構築した。重層的遡行的物語という漱石作品の方法を決定付けた。
「是が子供に関する夫婦の過去であった。」
「是が宗助とお米の過去であった。」

罪の回避
宗助は姦通の被害者安井の出現に戦き「心の実質が太くなる」ために参禅するがそれは罪を一時的に回避したに過ぎず宗助の不安は克服されない。姦通と参禅の設定が主題を深めた成功作といえるという立場と、主題を分裂させた失敗作であるとする立場に分かれる。いずれにせよ重層的罪の問題の解決は後期三部作に持ち越される。

お米の可能性
宗助とお米は安井を裏切った過去に罰せられて子供にも恵まれず都会に住みながら崖下の借家でひっそり暮らしている。宗助は禅門に心の平安を求めるが挫折する。一方お米は夫を信頼しながら常に微笑し続けることで心の平安を得ているかのようである。末尾の宗助の「下を向いたまま」の視線と、お米の「晴々しい」視線とは対照的である。お米の造型は目立たないながら宗助による苦悩の絶対化を相対化しているともいえよう。
‐宗助=代助の責任をとらなかった面(責任をとったからへこたれている宗助)
‐お米=主人公を対照化した主人公(視点人物)

‐夫婦間のディスコミュニケーション
宗助=現実的能力の衰退
お米=明晰(微笑=意志の隠蔽とノンバーバル表現)

‐お米と逃げない安井
安井=被害者意識
宗助=被害者意識
お米=加害者意識

「フェミニズム批評」(第二の性)
かわいそうでやさしく孤独な女性お米

9、後期三部作へ
漱石は「門」を脱稿後、胃潰瘍のため入院し修善寺温泉に転地療養するが多量に吐血し一時危篤となる。その後しばらく自らの生死を振り返り人知を越えた自然の運行を想いながら休暇を過ごすが、回復後には博士号辞退事件で道義的硬骨を示し、「彼岸過迄」「行人」「こころ」で近代的自我の問題、自己本位の可能性をあらためて追及した。この修善寺大患を機に「則天去私」の境地へと大転回したとする通説もあるが、そうした神格化には慎重でありたい。後期三部作では主題を主人公の苦悩として絶対的英雄的に描くのではなく視点人物を用意し同様の苦悩を抱える人物たちとの相関において、相対的多層的に描く作品構造に深まりをみせた。

10、こころ
先生とK
一つの恋愛を巡って先生とKがそれぞれに自我を発揮し衝突し内閉してゆく理念的心理的過程を徹底的に描いて、自我の可能性を問う思考実験場となった。先生とKの自我のありようはそれぞれ多様に評価されるが、自我追及が孕んでいる自由と孤立の二律背反な「人間の罪」の実態が見据えられている。

作田啓一「個人主義の運命」
   客体O
    △
 媒体M 主体S

欲望は自立的で無い
S→Oの単体は有り得ない(ロマンチックの虚偽とロマネスクの真実)
三角は最小の社会

先生とK補足
そして二人は自我を潔癖に追及して死を選んだがそれは自我の可能性に絶望してのことではない。西欧的近代文化の移入の混乱期であった明治の精神を極限まで追及するためであったろう。
‐天皇崩御と乃木(明治の精神)の殉死

私の立場
先生の遺書を受け取った「私」は先生とKの自我追及の格闘を新しい時代の中で追及し直すことを要求されたのである。その時私は先生との交流を手記にして紹介する単なる精神的同族では有り得ず、批判的な立場に立つことになる。例えば冒頭から先生が大事な友人を頭文字で呼んだことを批判し、やがては残された「奥さん」と共生する可能性さえ暗示されている。また私の位置を考察することは「下」の悲劇を特権化するのではなく「上」に立ち返って作品全体を考察することになる。

財産管理への固執
先生は両親の死後遺産管理を叔父に任せていたが叔父はそれを私的に浪費しそのことを誤魔化すために従妹との結婚を迫った。先生は叔父と訣別し軍人未亡人の下宿に入ることになる。未亡人もまた夫の遺産を相続するためには婿をとらねばならず(長子相続)お嬢さんとの結婚を企んでいると私は疑う。Kも養父を欺いて進学し実家は学費を弁償しKを勘当していた。そして私も父を亡くせば伯父に遺産管理を任せることになりそうである。作者の以前からの金権批判にも繋がり得るが特定の人物の特権的な事件をロマンチックに物語るのではなく、相似形の問題のネットワークにおいて人間社会や人物のこころが作動することを冷静に物語っているようである。

小宮豊隆
先生の苦悩と先生の悲劇とは、先生に慈愛があり、先生に高貴なものがあつた為に、一層先生の苦悩と悲劇とを濃厚なものにしている

江藤淳「夏目漱石」
人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての知力を傾けて描いていた

村上嘉隆「夏目漱石論考」
先生はKへの嫉妬の感情を介して、Kの意中を認知していた。知っていたからいいおくれたともいえる。ところが、Kは先生の御嬢さんへの気持ちを認知していたであろうか。─Kの立場は主観的観念論である。自分へは誠実であっても、先生に対してつまり他人に対してきわめて不誠実である。

小原信「孤独と連帯」
T(先生)は出直す可能性、つまり変身ないし新生の可能性というものを少しも信じることができないで、そのために、消極的で回顧的な生き方をすることになったのである。(自己処罰)

作田啓一「個人主義の運命」
媒介者によって動かされているという真実を認めることは、自律を至上の価値とするロマンチックな個人主義者の誇りを傷つけます。しかし、媒介者の拘束を深く洞察し、打ち砕かれた自尊心のかなたに予感される救済への道を示すことこそ、真実のロマンの使命なのです。─先生はKに対する尊敬と憎しみのアンビヴァレンスに陥りました。そして客体を獲得し、手本を喪失する結果となりました。

小森陽一「こころを生成する心臓」
「私は其友達の名を此所にKと呼んで置きます」
=先生のKに対するかかわり方、記憶が余所余所しいものであったことを示している。
「私は今自分で自分の心臓を破って、其血をあなたの顔に浴びせかけやうとしてゐるのです」
=故郷を棄てた先生は、結局奥さん御嬢さんとの間で擬似的な家族関係を構成しなければ生きていけないのであり、─新たな血の倫理が獲得されているといえよう。─既成の家族観を乗り越え、自らの心臓の鼓動をとおして、新しい人間関係の倫理をつむぎ出す言葉を打ち出していかねばならない。
「子供を持つた事のない其時の私は、」
=今の私に貰ッ子でない子供が既にいることを暗示している。─否定でも止揚でもない私の道と愛は、Kと先生の白骨を前にしながら、決してそれに脅かされることなく、それをとり込み、精神と肉体を分離させることなく、つきつめられた孤独のまま、奥さんと共に生きることとして選ばれたはずなのである。

記録者「こころ」解題ーKの死因と行き違った心ー
寺の子に生まれ医者の子として育ったKは、先生の治療にあたる医者Kとして『諌死』する。
Kは遺言に先生の非行を書かず、また「自分は意志薄弱」云々とまるで先生の事のようにみえる内容しか著さす、あたかも改心を促すかのようである。
私とKの旅行後から媚態をみせるお嬢さんと奥さんに頭を下げる先生は
「その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました」下四十九
時代遅れの明治の精神(天皇、乃木、倫理、人間関係)に殉死し私を信用して遺書を遺す。
一方私は先生を批判し、
「余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない」上一
奥さん(静)を救済に向かい(小森陽一、石原千秋)奥さんと結婚するだろう。
「子供を持った事のないその時の私は」上八
「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」下二
それは世代交代を意味し、新しい人間関係を生み出した。私は手記として先生の遺書を記す。
「筆を執っても心持は同じ事である」上一
「奥さんは今でもそれを知らずにいる」上十二
「私はその晩の事を記憶のうちからひき抜いて此所へ詳しく書いた」上二十
しかし先生の遺書には
「それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います」下五十六
「私は私の過去を善悪とともに他の参考に供する積りです」下五十六
と、先生の遺言とは思えない文がある。私の手記の中の先生の手紙は郵送できない分量である点や、私が四つ折りにできた点から、遺書は私によって書き換えられてはいまいか。
そもそも先生はKの死が諌死である事を理解しているか疑問である。すると先生の苦悩は的外れではなかろうか。むしろ私の先生批判や奥さん救済は正当におもえてくる。
言い換えればKは先生の改心を願って諌死したが、先生は変わらず罪悪感から何もできず、むしろKを理解した私が新しい世界に飛び乗る、という行き違うこころの有様が描かれているのである。


11、晩年の漱石
漱石は「こころ」連載後再び胃潰瘍に倒れ、死を意識し始め作風に大きな変化を生じる。随筆「硝子戸の中」は珍しく私事を暗鬱な微笑とともに告白。しかし一方では告白が浄罪となり得るためには深い思想の支えを条件とすると講演していた。そうした告白の小説化として「道草」では養父や妻との関係をモデルに我執のメカニズムを非情に描いた。以前のような形式論的な追及はなく、自然論理的な考察に移っている。やがて「大我は無我と一なり」と記し「則天去私」と毫筆する一方「明暗」では人間関係のネットワークを複雑に布置し、そこで現象する我執を執拗に追及して巨大な人間の喜劇を構成した。その起源であり救済の象徴でもある女性が登場したところで、胃潰瘍の内出血のため未完に終わった。一作で発生した問題の起源を次作で検証することで繰り返してきた精神運動はようやく止まった。
自我=利己的
↓社会
自己本位=普遍的
↓時代
則天去私=妥当性

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐後期