断片:「豊かさ」を知らない若者達
今回もまたコメント欄に書ききれない話など...
COP26に合わせて東京・新宿駅前に若者達が集い環境保護についてのアピールをした話。上記を読めない人は以下をどうぞ。
「これ以上の豊かさはいらない」という言葉にけっこうな数の人が噴き上がっていて。まあ、たしかに格差と貧困が蔓延している現状の日本社会において比較的恵まれた層である首都圏在住の大学生が「これ以上の豊かさはいらない」などと言えば、「それはお前が恵まれているからだ」というルサンチマンという言葉を使うのも気の毒な反発が出るのも当然の話しなんですが...
若者達は実は「豊かさ」というものがなんであるのか、社会が豊かになっているということがどういうことなのかわからないのだと思うんですよ。
確かに日本は発展途上国に見られるのような絶対的貧困は数少ない事例となる社会で、相対的貧困の度合いは年々強まりつつあり、行政による「水際作戦」と呼ばれるような福祉抑制策によって、なかなか生活保護にたどり着けない、その結果家族と心中を図るなど悲惨な事例も増えつつあるものの、それでも社会が崩壊していくようなレベルの状況には至っていませんし、行政や社会全体に対する信頼もまだまだ厚い。相対的なレベルで言えばいまだ「豊かな社会」と言えましょう。「昔はもっと豊かだった」と言う人もいますが、バブル期とかの一時期を除くと必ずしもそれは正確な認識ではない。倒産や夜逃げ一家心中といった話は、実は現状よりも高度経済成長期のほうが多かったわけです。日本が豊かな社会だった時期は、実はそんなには長くない。
とは言え。昔のほうが豊かな社会であった、という認識はある意味では間違いではない。どういう意味かと言えば「社会が豊かになるとともに私達の暮らしもまた豊かになる。少なくともそう期待/想像ができる」という意味においてです。つまるところ、多くの人が将来に対して漠然とした期待や希望を持てた、そしてそれが少なくない人にとって現実そのものであった、という意味において「昔は豊かだった」わけです。そこが現在の若者を取り巻く環境とは決定的に違う。
バブル崩壊から数えてもう30年になるわけです。今現在20代前半の若者である大学生諸君にしてみれば社会が経済成長していく姿も、物価がどんどんと上がっていく姿も、多くの人々の身なりや生活が改善していく姿も見てはいない。ほぼ現状の日本社会と大差のない姿しか知らない。しばらく前にYouTubeで「仮面ライダークウガ」「仮面ライダーアギト」といった2000年、2001年に放送された特撮番組を観ていて愕然としたんですが、一部を覗いて舞台となっている東京の風景がほとんど変わらない。2000年から数えて20年前といえば1980年代初頭です。「仮面ライダースーパー1」や「ウルトラマン80」といった作品と上記を見比べてみてください。どれだけ変化があるか。そういった変化を若者達は極一部を除いて経験していない。これでは「豊かさ」というものを固定的な、現状維持的な捉え方をするのも無理はないでしょう。
社会があまり変化をしていない、ということのもう一つの問題点は「変化をする」ということに対する想像力が働かなることです。炭酸ガスを排出する火力発電を停止して代替として原子力も利用しない、結果として不安定な再生可能エネルギー頼りで社会を運営すればどうなるのか。そういう想像力が働かない。若い人はご存じないかもしれませんが、昭和80年代くらいになるまで日本の電力供給網も不安定で停電は珍しい現象ではなかった。基本的には送電にまつわるトラブルが原因なんですが、ピーク時に対応できなかった面も多々あります。経済成長があり工場など大規模電力消費が多ければやはり不安定化は避けられませんから。こういうことは若い人達には想像の埒外でしょう。経験のないことに対する想像力を働かせろ、と言っても限界はありますからね。噴き上がっている年寄りも実は同じではないかと。
「豊かさ」を単純に貧困のない状態、とだけ捉えると本質を見誤るのではないかという危惧があります。人はパンのみにて生きるにあらずで、衣食住が保証されればそれで後は自己責任、という社会ではやはり「貧困」の問題は解決しないでしょう。ほんとうの豊かさ、社会にとって必要な豊かさは、もちろん衣食住を否定するわけではないのですが、「豊かになれるという希望を持てるか否か」にあるように思います。未来を信じられるか、と言い換えてもいい。そういう意味では、気候変動に対処して環境を維持できる社会を構築することが未来への希望に繋がる、という話も似たようなもののように思えます。「豊かさ」を知らなければ他の手段で未来への希望を紡ぐしかないですからね。「豊かさはいらない」と叫ぶ若者達もまたゼロ成長の犠牲者であるのかもしれません...
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