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近代文学についての印象

私の専門からは程遠い近代文学について書きます。近代文学に興味のある方、大学編入試験を考えている方向けです。

読めるけど読めてない、でもちょっと読める文章。どっかの食べるラー油みたいだな、と思いましたね? これがメンタリズムです。

さて、「読めるけど読めてない、でもちょっと読める文章」って、どんな文章のことを指しているでしょうか? え? 私のnote? ちょっと何言ってるかわかんないですね。

さて、その「読めるけど読めてない」みたいな文章なんですが、ズバリ、近代文学です。
「いやいや、現代語じゃん。読めないわけないでしょう」
と思った方いらっしゃるかも知れませんが、下手したら古典よりも読めていないかも知れません。

何故かって、それは「現代語だから」です。ますます何を言っているのかわからないという方がいっぱいいると思うので少し丁寧に書こうと思います。

例えば、高校の教科書で
・志賀直哉「城の崎にて」
・夏目漱石『こころ』
なんかを読んだ方もいらっしゃるのではないだろうか。多分、普通に読めたと思う。

ところが、彼らが活動していた時代は一〇〇年前くらいであるし(志賀直哉の場合は一〇〇年前だと初期であるが)、当然のこと現代とまるで違う。夏目漱石の『こころ』でいえば、「先生」にしろ「私」にしろ、大学生を経験しているが、当時大学生を経験するのは人口の五%ほどである。

となると、スーパーエリートなわけだ。高校の教科書ですんなり読めたのは、選択された作品なり選定された箇所なりがそうした疑問を持ちにくいためである。

他にも漱石ならば、大学生なり大卒なり、専門学校卒なりと、スーパーエリートが出てくる作品がいくつもある。例えば前期三部作なり、『坊っちゃん』なりだ。
前期三部作の『三四郎』でいえば、大学生である主人公はスーパーエリートとは思えないような天然ボケをかます。
『坊っちゃん』でいえば主人公は専門学校を出たにも関わらず愛媛県松山市というど田舎に、そこまでエリートでなくとも就けるような中学教師として赴任、そこで中学生に揶揄われつつも教師をしていたが、教員同士の抗争に巻き込まれて暴力沙汰を起こす、といったものだ。

後者に関していえば、現代の我々だと「坊っちゃんってなんか痛快な武勇伝だよね」と思うかもしれないし、多少読み慣れている人であれば「一人称視点だから武勇伝っぽいけど実際は敗北してるよね」といった感想だろう。
ところが、同時代の人にとっては「なんで東京の専門学校出たスーパーエリートが僻地の中学教師やねん」といった読みから入るだろう。

漱石自身、視点の問題については相当意識的に書いていたはずである。そうした視点による「語り/騙り」とでもいうべき装置として設定されていたであろうコードを読み落とす、ということは往々にしてあるだろうが、「現代語だから」そういった意識が薄れがちである。

さらに志賀直哉について触れてみよう。志賀直哉の初期作品で、デビュー作と位置づけられるものの一つに「網走まで」がある。「網走まで」は列車が舞台の作品であるが、「列車」と聞いてどのようなものを想像するだろうか?

多分多くの人は「電車」であろうが、「網走まで」発表年の明治四十三年では当然汽車である。さらにいうと、車両の形も違うし、乗っている人だって違う。
例えば翌年の志賀直哉の作品で「鳥尾の病気」という作品があるが、そこでは牡蠣を売り歩く商人が牡蠣を背負ったまま乗車をしてくるし、実際その臭いが酷い、といったことから物語が始まるわけである。
車両内でハンバーガーを食べるだけでも相当に勇気が必要な現代とはまるで違うわけだ。となった時、多分我々が想像する「列車内での物語」と、同時代の読者が想像する「列車内での物語」とではまるで違うだろう。

さらにいうと、目的地までの所要時間だって違ってくる。「網走まで」というタイトル通りに東京から網走まで行くのにはどれほどの時間がかかっただろう?
更に、明治末あたりの人々は東京から網走まで行くのにどんな手段を取っていたのだろう?
「列車」一つ取っても多分、意識せずに読むと読み飛ばすところが沢山あるわけだ。

詰まるところ、現代語だからこそ読めない、それが近代文学だと思うわけである。

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