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読書覚書:『台湾漫遊鉄道のふたり』楊双子・著/三浦裕子・訳(中央公論新社、2023)

頁を捲る度、熱々の湯気とともに露店や屋台が立ち並ぶ場所の香気が立ちのぼってくるのを幻視した。台湾のさまざまな土地で発展・定着してきた多種多様なローカル・フードの目眩く描写に、とにかくお腹が空く。

台湾での講演旅行に招聘された日本人作家・青山千鶴子と、台湾人通訳の王千鶴とのコンビが大量の美味そうなメシを食い、鉄道に乗って漢詩的情景が脳裏に浮かんでは流れゆく眺めの中を移動し、そしてまた食う。千鶴は料理もプロ並みの腕前で、現地の食材や料理の知識を惜しみなく披露しながら大量のメシを作り、そしてまた食う。軽快な2人のやりとりと、その合間に織り交ぜられる歴史的な逸話や当時の光景が楽しげに弾けて、割と厚めの頁はガンガン減っていく。

とはいえ、そこで描写されるのはもちろん料理の話だけではない。時は昭和13年(1938年)とあって、日本統治下の台湾では皇民化政策が強化されていた真っ只中である。台湾の人たちはこの間、土地や財産といった目に見えるものから、言葉や文化などの目に見えないものまで現在進行形で収奪されている最中でもあった。

青山は文武、ではなく文“食”両道に秀でた千鶴をいたく気に入り、「友だちになりたい」「親友だと思っている」と猛烈にアプローチするけれど、楽しく美味しい時間を共有する一方で千鶴は「能面の顔」の仮面をかぶり、靡かない。
なぜならそこには統治者と被統治者という、立場的・権力的な非対称性の大きな溝が横たわっているからだ。文章は基本的に青山の1人称なので、そのことに気づけず「千鶴がどうしても心を開いてくれない」というフラストレーションを募らせていく彼女の心地を読者は追体験することになる。

あまつさえ、青山は「女性として不当に扱われている」ということに女性としての立場の共通性を見出し、千鶴と連帯しつつ千鶴を「救いたい」とさえ思っている。当時の帝国(=日本)でも台湾でも、ゴリゴリな家父長制が当然のようにデフォルトの社会構造であるため(今もだが)、そうした状況が共通しているのは一面では事実だ。

しかし、青山が感じているしがらみと千鶴が感じているしがらみには、もちろん違いがある。国の違いも当然あるし、その中でも伝統、民俗、文化、政治、経済などといったさまざまなレイヤーと文脈が複雑に折り重なって入り組んでいる。
そのことに気づかず配慮もせず、青山は良かれと思って千鶴への“施し”を与え続ける。
この独善的と言ってしまってもいいような振る舞いを受け止め続ける千鶴の苦々しさは、青山の目を通して言語化できない「違和感」として読み手をモヤモヤさせる。そしてとりわけ我々日本人には、それは決してスルーできないものとして鋭く突きつけられている

かくして物語終盤、紆余曲折あって千鶴との距離があいてしまった青山は、台湾生まれの役人・美島にこう言われることになる。

「この世界で、独りよがりな善意ほど、はた迷惑なものはございません」

こう書くと青山がもの凄く嫌な人間に見えてしまうけれど、物語全体を通してみれば決してそういうわけではないし、かつて日本がしでかしたことの加害性についても、そこまで重くシリアスに問うてくるわけでもない。しかし、割とポップなエンタメ作と言ってもいい本作中に、今現在の現実と地続きの時間のレールの上でかつて確かに起こった人間としての尊厳を大いに損なう出来事を、きちんと“ほろ苦さ”として差し込むことで、読後の余韻は間違いなく奥深いものになっている。

そして完全に個人的な感覚によるものだけれど、上述の美島のひと言には、レイヤーは違えど多大に共感するところがあった。本作で「日本ー台湾」となっている関係性の構図を「日本—沖縄」と置き換えた場合、前提条件の相違点はありつつも、その対称性はかなり相似になる部分も少なく無いからだ。
同じ国であるにも関わらず「南国のリゾート地として、オリオン・ビールのTシャツを着てはしゃぎに行く所」以上でも以下でもない場所として沖縄を認識している人はきっと多い。言わずもがなの米軍基地問題をはじめとして、沖縄が直面している課題は沖縄だけの課題ではなく日本の課題でもあるはずなのに、本土の人たちはそれを見て見ぬフリをしている、というか見て見ぬフリをしていることにすら無自覚なのではないかと思ってしまうことも多々ある。

本作冒頭で「南国・台湾」を連呼しながらエキゾチックな空気感と屋台メシに魅了される青山と、沖縄でよく見かけるはしゃぎまくる観光客に本質的な違いはおそらく無い……などと書くと、沖縄を訪れる人たちを糾弾しているように見えてしまうかもしれないけれど、そんなことはない。
ただ、単純に、もう少しちゃんと沖縄のことを知ってほしい。長らく沖縄が対峙している数々の問題は、沖縄の人たちだけの努力では決して解決しないものだから(これ以上続けると別軸での展開になってしまうし、長くなりそうなのでこの話は一旦終わっておく)。

ともあれ、スルスルと楽しく読めて、台湾と日本との歴史的文脈や関係性にも思考が及び、爽やかさと苦さを併せ持つ読後感を味わえるということは繰り返し強調しておく。それに加えて、訳者あとがきで三浦裕子さんが以下に述べていることもとても重要だ。

政治的、経済的、直近では軍事的にも、中国からの圧力が増す中で、台湾人が「私たちの歴史、わたしたちの文化」を再認識する意欲が高まっている。その中で、約五十年間わたる日本統治時代は、被植民地として抑圧されてきた時代であるが、台湾人が通過、経験していた歴史のひとつであることには間違いない。それがどんな時代だったのか、そこで何が起き、今日にどう繋がっているのかを知ることで、今の自分たちのアイデンティティを考えようとしているのだ。

SNSを見れば歴史修正主義的な言葉、それを基調にした差別的な言葉が溢れている。過去にあった都合の悪いことを無かったことにして、今の自分を肯定するために歴史を利用する態度は、傲慢で不遜で愚劣で、歴史に向き合う上では不健全極まりない。自分にとって都合の良い物事だけで構成された世界など、何のワンダーも存在しない、恐ろしく狭隘でつまらないものに過ぎないと断言できる。

歴史に向き合うことは自分にも、自分が暮らしている国にもその社会にも向き合うことと同義だと思う。そして、それは歴史書を紐解くだけではなくて、本作のような虚構の物語を通して成されてもいい。そこにこそフィクションの力はある。

追伸的追加情報

ちょうど本書を読了した数時間後、何気なくSNSを開いたら「楊双子さんの『台湾漫遊録』が全米図書賞受賞、台湾初の快挙」というニュースが報じられてて、もの凄くびっくりした。何というタイミング。本書を最後まで読んだ人なら、アメリカとのちょっとしたリンクに思わずニヤリとしたんじゃないだろうか。ともあれ、めでたい!!

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