現代を「鬼滅の刃」で読む(参):カナヲと童磨ー視点取得の不可能性ー
物事を様々な視点で捉えることは大切です。「視点取得」は、簡単に言えば相手の視点を借りて(想像して)物事を捉えることです。しかし、どうにも「視点取得」が難しい相手も存在します。逆に、相手から見れば「こちらの視点」こそ理解不能と思うのでしょうが。
この視点を「認識のフレームワーク」と言い換えても良いでしょう。このフレームワークは一人ひとり違います。夫婦の間でも違います。夫婦の場合は何年かつきあっていると、相手の「認識フレームワーク」を「借りて」物事を見る、あるいは推察することができるのかもしれません。
しかし、世の中にはあまりに異なりすぎる「認識のフレームワーク」を持つ人がいて、どんなに頑張っても対話やコミュニケーションが成り立たず、無力感に襲われ、あるいはトラブルになる場合があります。
ある人は「認識のフレームワーク」の違いを「個性」と呼びます。まあ、良いでしょう。確かに、そうかもしれません。たしかに、ある「個性」が少数派であっても同じ「個性」を持つ者同士では理解し合えるのかもしれません。一方で、多数派は確率論的に考えても理解し合える相手に出会う可能性は高い。問題が起きるのは、少数派の「個性」は多数派の存在を必要とするからです。
つまり、鬼滅の刃の例を挙げると、「鬼」は人間を食べる必要があるということです。炭治郎の妹(禰豆子)のように、人間を食べる代わりに「睡眠」をとる鬼(睡眠大事!)、逃れ者の珠世のように少量の血液を飲むだけで良い鬼もいますが、基本的に鬼は人間を捕食するために必要としています。
多数派の側も、特殊な能力を身に着けていない限り、少数派の「個性」を「普通」に受け入れることが難しい場合があります。
猛烈な理解とエネルギーを要することもあります。しかし、「認識フレームワーク」の違いに対して、当事者たちが自覚をもたない(アンコンシャスな)場合は、周囲の多数派(少数派)を絶望させることもあります。
この構造に上下関係などを加えると「ハラスメント」につながる危険が高まります。無意識ですので「自分がハラスメントをしている」自覚は持てず、むしろ「向こうがハラスメントだ」と言い募り、「理解不能」と周囲の多数派(少数派)の頭をくらくらさせてしまうこともあります。
それでは、コミック第18巻から読み解いてみましょう。
栗花落カナヲは鬼の童磨の本性について指摘します。カナヲは童磨が人間の時から「共感力」に問題があったのではないかと突きつけます。他の鬼が(鬼であっても)感情の変化で顔色が青ざめたり紅潮したりするのに対して、童磨は共感を示す言葉をセリフとして語れたとしても、そこには感情が認められないという。
栗花落カナヲ:「もう嘘ばっかり吐かなくていいから。貴方の口から出る言葉は全部でまかせだってわかっている。悲しくなんてないんでしょ?少しも。」
栗花落カナヲ:「貴方の顔色、全然変わってない。”一番の友人”が死んだのに、顔から血の気が引いてないし、逆に怒りで頬が紅潮するわけでもない。」
栗花落カナヲ:「貴方のことを気の毒だと、死の間際のカナエさんが言っていた。貴方何も感じないんでしょ?この世に生まれてきた人たちが当たり前に感じている喜び、悲しみや怒り、身体が振るえるような感動を。貴方は理解できないんでしょ?」
栗花落カナヲ:「でも貴方は頭が良かったから嘘をついて取り繕った。自分の心に感覚がないってばれないよう、楽しいふり、悲しいふり。貴方には嬉しいことも楽しいことも苦しいこともつらいことも、本当は空っぽで何もないのに。」
ひょっとしたら、カナヲは心理戦の戦いの戦術として相手にぶつけたのかもしれません。わかりませんが。
童磨(鬼):「君みたいな意地の悪い子初めてだよ。何でそんなひどいこと言うのかな?」
童磨という鬼に戦術として敢えて食べられることを選んだ蟲柱の「胡蝶しのぶ」は、童磨との間の「視点取得」を拒否しました。「名前も覚えないでください」「気色悪いので名前呼ばないでください」と。
さて、鬼舞辻無惨や童磨のようなパーソナリティの持ち主に対して、どのように向き合いことが可能なのか。「ハラスメント防止研修」や「アンガーマネージメント研修」はあまり効果がなさそうです。鬼たちのドーパミン過多を認知行動療法で治療できるのか。いや、そもそも病ではなく「認識のフレームワーク」の違いであり、共約は不可能なのかもしれない。
(コミック第18巻より)
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