抹茶
私はコーヒーが好きだ。抹茶もそれに劣らず嗜んでいる。
気分がゆったりした時は抹茶を点てて見る。
茶筅を見ながらふと『織田信長はなぜ髷を茶筅髷にしたのか?』気になった。
気になるとすぐ調べたくなる悪い癖が起きた。
信長は自分の髷を茶筅髷にしたばかりか、第2子の織田信雄を『お茶筅』と呼び、一般には『茶筅丸』と呼ばせたようだ。
なぜ茶筅に拘ったのか?
当時の茶の湯とはなんだったのか?
当時の茶の湯は大陸から伝わり、寺院が主体で流行し始めた。全てが大陸式の作法で、飲む打つ買うの接待の場であった。
打つは『闘茶」として『栂尾のお茶何割、宇治何割』とミックスしたパーセンテージを当てるギャンブルだったらしい。(栂尾を本とし、他の産地の物を非として本非を争った。)
『花園天皇宸記』の元弘2年(1332年)六月五日の条にも「後伏見上皇の御所にて公卿どもの『飲茶勝負』あり。賭物を出す、茶の同異を当て、これを知るなり」とあるし、『祇園執行日記』にも、同じような記載がある上に『建武式目』の第二条では、「茶よりあいと郷士、莫大な賭けに及ぶは、くせごとにつき停止」と禁止令までだされている。相当に流行したらしい。(信長殺し、光秀では無い 八切止夫)
負けた掛け金が払えなくて、南朝から北朝へ鞍替えした武将も出たほどだという。
この仏教系の『バサラ茶』に対抗して、神道系の村田珠光の弟子2名が『堺』の皮屋の武野紹鴎に『わび茶』を教えたのが現代の茶道に繋がっていると思われる。
なぜ、信長がこれに関わるのかキーワードが『堺』だ。
『堺』はマカオを中継地としたポルトガル船の寄港地だ。ポルトガルは鉄砲、火薬(煙硝)の卸元である。
『堺』の貿易商は皆『わび茶』のグループである。
紹鴎門下の宗久は信長から禄をもらい旗本となり、鉄砲工場を作っていた。
つまり、信長の髷が茶筅髷だったのは、『わび茶』本家である有力な堺商人に取り入り、鉄砲火薬を入手するためのご機嫌取りだった。
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