【連載小説】ある青年の手記 第Ⅲ章 (6)「別の世界」の創造。あるいは「労働」について
既にお気づきの方もいるのかもしれないが、僕はこの文章を書いている時、「とても個人的」という表現を、自らへの戒めも込めて、意識的に多用することにしていた。
僕は自他ともに認める「とても個人的にものごとを考える人間」であり、そのコンテストが開催されれば上位入選待ったなしの男である(全国津々浦々に生息する個人的にものごとを考える人間たちが一堂に会するとは到底思えないのだが)。
僕は生まれてこのかた、自分自身のことを手の施しようが無いほどの「社会不適合者」であると思って生きて来たし、ゆえに他の多くの人とは多少異なるライフ・スタイルを選択したところで、誰からも見咎められないのでは無いかと、勝手に考えていた(果たして他人の生き方を見咎めることのできる権利を持った人間が存在しうるというのだろうか?)。
そして僕は飽くまでもマスターベーションをするためにものをかいている。僕がたまたまかき、そしてたまたま送りつけた小説(めいたもの)が、とち狂っているとしか思えない出版社の新人賞を受賞し、そして僕が飽きずにこの大地に産み落としてしまっているものたちが、これまたとち狂っているとしか思えない人たちの評価を得続け、そうして僕は生計を立てることが出来ている。まあ運が良いのだろう。それしかない。
兎にも角にも、僕が思うに、そもそもの「ものをかく」という行為が「とても個人的」な行為であり(「誰かのために」という全くの下らない大義名分をインポテンツのペニスのようにぶら下げてものをかいている人も、そしてそれで生計を立ててしまっている人も、中にはいることだろう。しかし自分では無い「誰か」という第三者の視点を意識的に入れてしまった時点で、既にそれはものをかいている人の「ほんとうの心」からは、助っ人外国人が快音を鳴らしてライト・スタンドへ放つホームラン・ボールなみに遠く離れて行ってしまうものだし、きっと彼らは混じり気の無い純度百パーセントの偽善者であるか、あるいは許すまじマネー・ゲームの熱狂的ファンであるに違いない。いずれにせよ彼らは文学的価値の追求には道端に落ちている犬のフン並みに(あるいはそれよりも)興味は無いはずである。彼らはこの選ばれた人のみが立つことの許されている歴史的で権威ある神聖なステージからはとっとと降りて然るべきだし、毎日ニート同然の生活をして読むに値しない三文小説のたった一つの表現でうんうんと頭を悩ませているよりは、毎朝青色のゴミ収集車に乗って街の清潔さを維持しているほうが、よっぽど彼ら自身のためになるはずである)、僕はそれを今のところの職業としてもらっているので、僕は自分が「とても個人的にものを考える」人間であるということに、(僕には珍しいことだが)あまり懐疑的にはならなかったし、ある種の矜持すら持っていた。
しかし、僕は今回、彼や彼女の手記を読んで、
「これはどうやら考えを改めなければいけないぞ」
と、襟を正すような気持ちになった(実際に僕は、その時着ていた白のポロ・シャツの襟を正していた)。
確かに僕には才能というものがある。それに関しては僕はかなりの確信を抱いている。もしも僕に才能が無かったとしたら、この人間(あるいは全ての生物)の掃き溜めのような生活に甘んずることを潔しとしなかったはずだ。何かアルバイトでもして、少しでも人間としてのクオリティを上げていたに違いない。
だが僕はこの唾棄すべき生活をかれこれ二十年以上続けている。才能があるかないかといえば「才能アリ」なのだろうし、選ばれたものかどうか問われれば僕は「選ばれたもの」なのだろう。僕は「持てるもの」だし、"economic animal"たちのために言うのであれば、おそらくは僕は「成功者」であり「勝ち組」であり「努力した人」になるのだろう(随分と嫌な言い方をしてしまった)。
ただ、先ほども書いたように、僕には「努力」をしたという記憶が全く無いのである。僕にとってはその敷かれたレールから(自らの意思とはいささか無関係ではあるが)外れて行くことが最も自然なことであると思われたし、とても自然的に小説をかくようになった。
「山月記」の李徴のように「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした」訳でも無く(しかし僕はどうしようもないほどの人間嫌いであるため「人とを絶って、ひたすら詩作に耽」ようとはしたのかもしれない。ただこの生活を続けたことで「肉落ち骨秀で」になったわけでは無く(「眼光のみ徒らに炯々として」いるのは昔からである)、むしろ僕のお腹には怠惰の象徴でしかない脂肪がいくらかついてしまっているし、顔もベーキング・パウダーを混ぜてオーブン・トースターで十分に加熱したとしか思えないほどぱんぱんに膨れ上がっている)、ヘッセのように「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と神学校を脱走した訳でも無い(むしろ僕は自分の意思とは関係無しにそこから追い出されてしまった)。
「脱サラ」(何だか怪しい言葉である。「サラ金」をどうしようもなく想起してしまう)した訳でも無いし、そもそも僕は社会に出たことがない。僕は飽くまでも自然な行為を通して、今の「ステータス」を得ることができたわけだ。そこには何か血みどろな激闘が繰り広げられたわけではなく(ただ僕の内面ではそのような葛藤、矛盾が消えることはない。それらをアウフヘーベンさせ小説として結晶させてあげることによって、僕は生きることができているのだ。それをやめてしまうと、おそらくは僕は全くの廃人となってしまうのだろう。僕はどうしようもない十字架を背負わされているのだ)、少なくとも外見上は、「凪」のような状態が、しばらくは続いている。
「何て羨ましい」と思う人もいるのかもしれない。確かにそうなのかもしれない。もし僕が日雇い労働者であるとしたら、そのような「凪」な生活は、喉から手が出るほどに欲しくなってしまうだろう。僕は恵まれているのかもしれない。運が良いのかも知れない。
だが、この僕の生まれもってしまった性質で、今まで大分辛くて苦しい思いをして来たというのは、それは揺らぐことのない事実である。ゆえに僕は小説家として生きることで「別の世界」を創造し、そこで息をするしかなかったのだ。
もしそれを一切合切していなかったとしたら、僕はいったい今頃どうなっていたのだろう?おそらくは廃人になっていたに違いない。それは疑いようが無い。どこの国だか分からない外国人が必ず一人はいるような、そんなアルバイトを転々として、そしてサラ金地獄で、あるいは自殺していたのかもしれない。
僕の生き方は、他の人からすれば「逃げ」なのかもしれない。確かにそうなのかもしれない。
「私も『社会不適合者』で、今にも死にそうな思いでいるのに、でも生活のためにと必死にしがみついて彼らと一緒に働いている。もし私にそんなエキセントリックな生き方が可能ならば、既にそうしている。でも私にはそんな恵まれた才能もお金も無いから、だから諦めるしか無い。死んでいないだけマシだ」
もしこういったことを面と向かって言われれば
「あ、はい。そうですか。大変ですね。どうぞご自愛ください」
と言わずにはいられないだろう。僕は彼らにこの他にどうしてあげることもできない。彼らにお金を恵んであげることが適正解だとも思わない(彼らはますます荒んで行くことだろう)。
でも、それでは僕の「とても個人的にものごとを考える人間」としてのランクが上がっていくだけだし、何とかしなくてはならない、というだいぶ偽善めいたものを感じてしまう。一体彼らはどうしたらいいのだろう?
そこでも僕は性懲りも無く「"別の世界"の創造」を、彼らには勧めるのだろう。
おそらく彼らにとっての諸悪の根源である「資本主義」というモンスターは、これからも我が物顔で生き長らえていくに違いない。
なぜなら"economic animal"たち、特にその中でも「モンスター」がいることで心底美味しいものを食べている奴ら(「成功者」や「勝ち組」たち)が、その怪物に餌を与え続けるからである。彼らが餌やりをやめない限り、「社会不適合者」たちは、この世界では息をすることは出来ない。
となれば、「社会不適合者」たちは、息をすることができるように、この世界ではない「別の世界」を創るしかない、というのが僕の提言なのである。どういうことか?
例えば「マニュアル」というものがある。これは「モンスター」が「社会不適合者」から「個性」を奪うものの代名詞だ("economic animal"たちには「個性」など必要ないので、彼らは喜んでそれに従っていく)。それを無視するべきなのではないか、ということを僕は言っているのである。随分危険な香りが漂ってくるが、僕は飽くまでも「正気」である(それは僕の中での「正気」であり、世間一般からみるとそれは「狂気」でしかないのかもしれない)。
「マニュアル」というのは"animal"たちを効率的かつ合理的に飼い慣らすための一つのツールに過ぎず、それは絶対的なものではない。中には「マニュアル」に書かれている一字一句を正確に理解して暗記し復唱し実践しなければならない会社もあるのかもしれないが、それこそが俗に言う「ブラック企業」であり、「ブラック企業」はすぐさま辞めなければならない(この世界に命以上に大切なものはない)。
そして「労働」というものの本質はいついかなる時代も変わらないものであるはずだから、「マニュアル」を絶対視する必要はさらさら無く(「社会不適合者」たちはいくらか真面目すぎる)、何となくなぞるだけでいいのである。あなたの考える「労働」を、自信を持って行えばいい。それによって周りと齟齬が起こることは必至だろう。特に「『マニュアル』原理至上主義者」たちからは、変な目で見られるに違いない。しかし「マニュアル」に懇切丁寧従うことに、一体何の意味があるというのだろう?僕は「『マニュアル』原理至上主義者」たちは、「正しい」もので理論武装をしているだけだとしか思えない。彼らは自らの中身がすっからかんであるという事実を隠すために(あるいはそれに気付きたくないために)、やたらと「マニュアル」を自分の周りの人たちに押し付けているのではないだろうか?
徳の積まれた人ほど、その人の中身は空洞である。しかしそれは決して意味のない空洞なのでは無く、彼らは日々体内で製造されて行くエゴという固体を気体へ昇華させるための術を心得ているため、彼らの体の中は自我の気体と他我の気体とがいい塩梅で混合されている。そのため自分の好きなことも出来るし、他人の好きなこともさせてあげることが出来る。彼らが人から好かれるのは当然であろう(体内に製造されるエゴの固体を処理しようとしていない人たちが、周りから嫌われ疎まれるということは言わずもがなである。いわゆる「オタク」たちにはどうやらその傾向があるようだ)。
対して「『マニュアル』原理至上主義者」たちは、その体内に造られて行くエゴを、ひたすらに地面の中へと押し込んでいく。押し込み押し込み、自らの体内が空洞であると他人には見せかける。彼らがどこか偽善者くさいのはそのためである。そしていつかその押し込まれたエゴが溶解し、マグマのように彼らの体内へと噴出して来る。そうなればその職場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
いずれにせよ、会社の「マニュアル」が成分の一つとして含まれている血液が自らの体内を循環しているに違いない可哀想な人たちは放っておけばよく、あなたはそれが他人の度肝を抜くほどのエキセントリックなものでない限り(例えばスーツを着ずに真っ裸で出勤したり、一枚のPDFを仕上げるたびにデスク・トップの画面に渾身の右ストレートをぶちかまして腕を貫通させたりするなど)、「マニュアル」に縛られることなく、あなたが好ましいと思う「労働」をすれば良い。それであなたの態度を見咎めることのできる人はいないはずだ。なぜならあなたはしっかりと「労働」をしているわけだから。
その職業に関わらず、「労働」というものは、この世界にある「ほんとうに」素晴らしいものの一つだ。
人間は「労働」によって、社会(あるいは世界)と連続的につながることができる。そして自分の存在意義を確かめることができる。「ニート」や「引きこもり」の人たちが往々にして偏屈な性格でいるのは、おそらくは彼らの「世界」には彼(彼女)一人しかいないからであろう。彼らの「世界」は飽くまでも不連続なのである。
「それでも構わない。何故なら私は自分のことが大好きで、どれだけ撫で撫でしていても飽きることがないから」
と言うほんとうの意味での「オナニー野郎」なら話は別だが(僕の作品はよく「オナニー星から飛来して来た異次元のナルシシストが、右手で自分のペニスをしごきながら余った左手でかいた小説」という批判を受けるが(だいたいにおいて合っている)、僕のマスターベーションは飽くまでも連続的なものであり、社会とつながったものである。それはいくらかセックスの意味も含まれている。いずれにせよ僕自身が気持ち良くなるためにカイていることには変わりはないのだが)、「ニート」や「引きこもり」という、ただの差別的なカテゴリーに勝手に属されてしまっている人たちの中で、なんとか現状を打破したいと考えている人がいたとしたら、それは一にも二にも働くことである。部屋の外に出て、自分のだらしのない体を周囲の目に晒すことで、自分のエゴでぎゅうぎゅうな心を削って行くのである。それはまるで岩が川の上流から下流へと流れていく中で、角がとれて丸くなっていくように、エゴをあなたのいる環境によって削って削って削りまくって
「ああ、自分も周りの人たちと大して変わらないや」
と悟れば、あなたはだいぶ生きやすくなるだろう。
少し話が逸れたが、兎にも角にも、「労働」というものがこの世界にある数少ないほんとうに素晴らしいものの一つであるということに関しては、おそらく間違いは無い。僕の敬愛する作家の一人であるチェーホフも、「労働」には人一倍の思い入れがあったようで、
「文学も労働であり、しかも自分にとってもっともふさわしい労働であった」
と述べている。僕は文学とは人間がこの世界ですることの出来る究極のマスターベーションであると考えているので、それが「労働」であるかどうかは首を傾げざるを得ないが、彼がそのように言うのも、何となくは理解できる。
そう、「本来は」「労働」というものは最も人間的な行為であり、従って私たちは「労働」が行えるという事実に喜ばなくてはならない。だが満員電車内の黒ずくめの男たちの犯罪者のような顔を見れば分かるように、今の世界(特に日本)における「労働」というものは、本来のあるべき姿とは一線を画するものになってしまっているようだ。
なぜかといえば、それこそが「マニュアル」のせいであり、"economic animal"たちのせいであり、「成功者」や「勝ち組」たちのせいであり、そしてそれら全てを司る「資本主義」のせいなのである。
彼らは何を血迷ったか「労働」から最も重要なエッセンスを悉く抜き取り、自然的で人間的な行為を、わざわざ人工的で機械的なものにして、「労働」を無味乾燥な単なる苦役に仕立て上げたのである。そこにはたいそうご立派な「効率的」で「合理的」な目的があったのだろうが、その目的をこのまま突き詰めてしまえば、「労働」は別に人間ではなく機械にやって貰えばいいだけの話になる。
僕たちはどこかで線引きをしなければならないのだ。本来あるべき「労働」の姿とは何か、自然的で人間的な行為とは何か、機械に「労働」を支配されていていいのか、「効率的」で「合理的」なものであればいいのか、などである。「労働」が「効率的」で「合理的」なものであればあるほど、「社会不適合者」たちは息がしにくくなるだろう。
また、「"別の世界"の創造」は、そのまま創作活動にも繋がっていく。あなたは何でもいいから自分の作りたいものを、兎にも角にもひたすらに作っていればいいのである。それで他人に評価されようがされまいが、そしてお金が得られようが得られまいが、生計が立てれようが立てれまいが、そんなことは全くもってどうでもいいことなのだ。そこには多分に運という要素が含まれている。それは自分たちの力ではどうすることもできないものだ。
そして「客観的評価」なんてのは単なるキレイゴトで、芸術作品に一本の評価軸など存在するはずが無いのである。アカデミー賞やらノーベル文学賞やら芥川賞やら、そんなものは審査員たちの偏りに偏りまくった、僕たち常識人たちが震え慄かずにはいられないほどの、変態的な性癖によって決まるもので(審査員たちはいったいどんなセックスをするのだろう?そっちの方が十分見応えがあるに違いない)、ただのお金儲けのための賞レース、見世物に過ぎないのだ。だから、賞を取る取らないによって、あなたの作品の価値が左右されるなんて馬鹿げたことは、全く無いのである。
芸術というのは本来自己実現に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。それは僕が散々言っているように、単なるマスターベーションなのだ。自分の体の奥深くに眠る気持ちの悪いモヤモヤを、実形にして体外に表出させるわけである。そうすれば「なんだ、私を悩ませていたのは、こんなものだったんだ」と、自分という人間の負の側面を、実際に自分の目で見て確認することができる。そして心が軽くなって、体も軽くなって、生きやすくなる。口笛を吹きながら、スキップでもしたくなる。自分の周りに存在する全てのものが、美しく、愛おしく思える。それは、あなたがあなた自身―特にその中でも黒くて嫌な部分―から目を離すことができ、ゆえにあなたの周りにあるものを、偏りの無い「ほんとうの目」で見ることができているからである。あなたは誰かを愛することができる。そんなあなた自身も愛することができる。つまりはあなたは「幸せ」になれる。だから僕は「社会不適合者」たちには「"別の世界"の創造」を、飽きること無く薦めるわけだ。
それであなたが職業的作家になれるのかどうか、それは分からない。そんなことは誰にも分からない。そしてそれはさして重要ではない。「成功」するか否かは、あなたに運があるかどうかで、どうすれば運を自分のものに出来るのかは、浅学な僕には残念ながら分からないのである。
どうしてもそれが知りたくて仕様が無いという人は、そのことを「成功者」たちに聞いてみると良い。きっと彼らはとてもご立派なことを仰ることだろう。それを受け取るかどうかはあなた次第だが。僕ならそれにぺっと唾を吐きかけるに違いない。
あなたが職業的作家になれるのかどうかは、才能というものも関係するのだろう。だが、その才能というものは先天的なものなのか後天的なものなのかよく分からないし、僕が思うに、才能にもたれかかっているだけの職業的作家は、残念ながら短命に終わる。おそらく一番大切なのは才能では無くて「楽しむ」ことだと思う。僕は自分には類い稀な才能があるということを信じて疑わないが、飽くまでもその才能は一つのツールに過ぎず、楽しんで小説をかくことを、日々大切にして来た。すると気づいたら二十年という月日が経ってしまっていたのだ。きっと職業的作家というのは、みんなそんなものだと思う(僕には友だちがいないので、実際のところはよく分からないが)。
だから、あなたも自分の好きなものを、ただただ楽しんでつくっていればいいのだ。自分の良いと思ったものが、他人にも自分と同じ程度で良いと思ってもらえるなんていう希望的観測が、当たるなんてことはさらさら無い。この僕にしたってそうだ。
この場を借りて言っておくが、僕の作品はある一定数のファンを獲得している。いわゆる「ナツキスト」である。彼らがいるおかげで、僕は小説家として食っていけているわけだ。だから彼らには感謝の気持ちはもちろんある。それはそうだ。だが、時として鬱陶しくもなる。
本来小説を読むというのは孤独な作業であるはずなのに、彼らは、僕にはよく理解できないのだが、やたらめったら「群れる」わけである。そして彼らは僕の作品を全肯定し合う。とにかく肯定しまくるのだ。「これいいよね!」「ここもいいよね!」みたいに。そこには否定の「ひ」の字も出ない。彼らの意見を否定しようとする人がいるものなら、レンガかなんかでできた固い防壁をつくることによって、全くもって侵入させないようにするのである。彼らが一般人から忌み嫌われるのも納得である。それは一種のカルト宗教に近い。
カルト宗教は胡散臭くて凝り固まった信条でその周りを取り囲み、敵からの侵入を防ぐことで完璧な防犯対策を施す。しかし完璧な防犯対策ということは外部からの自由な出入りが出来ないということを意味し、それは内部からの自由な出入りが出来ないということと表裏一体である。そしてその内部は換気性能が無くなってしまい、空気がだんだんと澱んでいき、息がしにくくなり、その結果として、誰も望んでいない暴走が始まる。暴走が始まってしまえば、僕たち常識人には対処困難である。彼らはよく分からない(でもどこか筋の通っているようにも感じてしまう)屁理屈をこねくり回し、一般人を煙に巻く。そうしていつか、地下鉄の車内にサリンを撒き散らしてしまうのである。
兎にも角にも、「ナツキスト」の方々、後生ですから、ノーベル文学賞の発表される日に、みんなで嬉々として集まるのはやめてください。それはこのご時世的にもそうですし、何だか見ていて恥ずかしくなります。
どうやら僕は運が良かったようで、また彼ら「ナツキスト」(ナルシシストを気取った文学ファン)のおかげもあり、自分の好きな小説をかくことで生計を立てることができている。だが何度も言うように芸術というのは単なるマスターベーション、自己実現に過ぎないわけだから、君はお金のことは考えずに(むしろ考えないほうが君の精神はほんとうの意味で自由になれる)、気楽に創作をしていけば良い(そしてお金のことしか頭に無い「芸術家」を名乗る単なる詐欺師はとっととこの世から姿を消すべきである)。あなたは誰の目も気にせずに、部屋にこもって(メタファーとしての)精液を、どぴゅどぴゅと発射していけば良い。
正直な話、僕は小説をかき始めてからというものの、一切合切、(フィジカルとしての)マスターベーションをしていない。もうかれこれ二十年以上もである。中学生時代の、発情期のサルみたいに一日も欠かすことなく日々せっせとマスターベーションに勤しんでいた、しごきすぎたせいでいくらか黒ずんでしまったペニスをもった僕がもしそんなことをきけば、驚きすぎて思わず絶頂してしまうに違いない。マスターベーションをしなくなったおかげで、僕の肌理は良くなり、ニキビもすっかり無くなった。異性からも割と好意的に見られるようになった。
だから、女性にモテたいとか性懲りも無く思ってしまっている、自宅に鏡が一枚も置いていないに違いない何かと残念な青年がするべきことは、会員ジムに入会してバーベルを持ち上げることでも無く(会員ジムは単なる〈資本主義的な〉牢獄システムである。ジムの会員番号は囚人番号ということで間違いはない)、ギターのよく分からないコードを合わせることでも無く、ましてやマッチング・アプリに課金することでも無く(あれもただの〈資本主義的な〉牢獄システムであり、人間の根源的欲求である性欲につけ込んだ、会員ジムよりも遥かにたちの悪いものである。僕はアプリの運営者たちの気が知れない)、一も二にも創作である。創作をすれば、なぜあなたが女性にモテないのかが分かることだろう。そしてあなたはモテモテになる。
別に、創作一筋で生きようとか、そう意気込む必要は全く無い。それはそれで昭和文豪的な格好はつくのかもしれないけれど、何かとキケンなので、やめておいたほうがあなたのためである。