2-3.スサノオ神話と青銅器を使用した人々
スサノオは出雲神話では英雄神である。イザナギが禊によって生んだ最後の3神の一人で、「天」を治めるアマテラス、「夜の世界」を治めるツクヨミ、そして「海上」を治めるスサノオと役割がある。ところがスサノオは「海上」を治めようとはせず、大人になっても泣きわめくばかり。イザナギがどうして泣いてばかりいるのかと問うと、スサノオは母のいる黄泉の国へ行きたいという。
ここで疑問が生じる。母のいる黄泉の国とは死後の世界であり、スサノオは死にたいといっているのであろうか?そうではないことは後に高天原から追放されると出雲へ向かうことでわかる。ということは、出雲には黄泉の国という世界観が存在していたものの、高天原では黄泉の国という死後の世界観は受け入れられていなかったのではと想像する。さらにいうならば高天原、すなわちアマテラスが納める「天」は死んでから行く場所でもないということであり、出雲とは同じ文化、世界観を共有できない場所であったと考えることもできる。しかしながら、ここでは高天原がどこなのかを問うことが主題ではないので、そちらのほうは大和の皆さんに任せて、スサノオ神話を続けたい。
スサノオは出雲に行く前にアマテラスのいる高天原へお別れの挨拶に行く。しかし、アマテラスは何か目的があってきたのに違いないと武装して待ち受ける。スサノオは争う目的で来たのではないと主張するが受け入れられず「誓約(うけい)」をすることになる。この誓約(うけい)がまた研究者を悩ませる。この誓約(うけい)はそもそもどうすれば成立するのか明確でない。成立する前提条件そのものがここでは示されていない。しかしアマテラスはスサノオの誓約(うけい)を当たり前のように受け入れる。そこで不思議な誓約(うけい)を行い、スサノオは自分が正しかったと主張し、突然暴れだす。英雄神というよりは暴力神である。困り果てたアマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。高天原では大変な騒動になり、なんとかアマテラスをなだめ、スサノオを追放してしまう。
追放されたスサノオは母の国である出雲へ向かう。そこでヤマタノオロチを退治して出雲の英雄神となる。スサノオはヤマタノオロチを退治したときに自分の刃が欠けていることに気付く。ヤマタノオロチの尾を切り裂いてみるとそこから草薙剣が出てきたので、それをアマテラスに献上した。さんざんな目にあって高天原を追放されたのに、アマテラスに草薙剣を献上するとは不思議な話である。スサノオの持っていた剣は当然、高天原で作られた剣であるはずであるから、それが欠けるほどの草薙剣を手にしたぞという恫喝のようにも見える。おそらくこちらのほうが物語としては通りやすい。ただ、はたしてその草薙剣が銅剣であったかどうかはわからない。
その後、スサノオは出雲に留まり、須賀の地に宮殿を建てたという。実はこの宮殿の意味は大きい。この宮殿は住居を指すのであろうか、それとも神の住まいである社(やしろ)を指すのであろうか。スサノオは神である。だから住まいを建てるというよりは神殿を立てると考えるほうが正しいであろう。
さらに面白いことに「出雲国風土記」では別の場所に神殿を建てたのでは(?)という記載がある。
「出雲国風土記」は古代出雲の地方史で、広くその地の地勢、土質や、そこに生育する植物、動物、そこに営まれる風俗、習慣、伝承、行政の実態を含むものである。諸国に風土記の編纂を命じたのは713年で「古事記」成立の1年後のことである。おそらくこれほど綿密な地方史であるから何年もかかった労作であったろう。完成は733年、なんと20年の歳月をかけて制作されている。
「出雲国風土記」は、古老の語る古代の神々の話がたくさん盛り込まれている。その中でも大国主命とスサノオの話は最も多く含まれている。出雲に住んでいる身としてはこれほど面白い著作はないけれど、今回はこの「出雲国風土記」を主題に語るのが目的ではないので、ここではスサノオに関する部分にのみスポットを当てたい。
スサノオは須賀の地に宮殿を建てたのとは別に神殿を建てたという記載が「出雲国風土記」にはある。それが飯石郡の須佐郷の場面である。スサノオは須佐郷の説明に「この国は小さき国なれども国どころなり。よって、自分の名前は木や石にはつけない」といって自分の魂をその場所に鎮めたという。出雲を歩いてみると木や石に神様の名前が付けられていることがよくある。スサノオが木や石に自分の名前を付けず、自分の魂を鎮めたのであれば、これこそは神の住まいである神殿、すなわち社の記述ではなかろうか。このことが事実なら現代まで続く神社の起源はスサノオにあると言える。
なぜ、そこまで神殿に固執するのかと思われるかもしれないが、実は青銅器を使った人々も神殿を日常的に見ていたのではないかと思われるからである。それが松江市で発見された田和山遺跡である。
田和山遺跡とは1997年から2000年にかけて松江市立病院の建設に伴った発掘調査の時に発見された、小山に三重の環濠を掘った遺跡のことである。
小山を三重に環濠を掘っているのだから戦国時代の山城のような趣がある。ところがその頂上には生活を匂わせるものが全く見つからなかった。頂上には風よけに用いられたかのような杭の跡と、9本の柱跡だけであった。
9本の柱跡で思い浮かぶのはあの出雲大社のかっての柱跡である。現在も出雲のシンボルのような出雲大社。初詣にはたくさんの人々が訪れる聖地。島根はどこかということで鳥取と間違えられることはあっても、出雲は出雲大社があるところとすぐに答えることができる(出雲とついているから当たり前か)ほど有名かつ神聖な場所。2000年、その境内から驚嘆すべき宇豆柱が発見された。
平安時代、出雲大社は現在の倍の16丈(約48メートル)だったといわれる。その根拠となるのが出雲大社に古くから伝わる古代の巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」である。ただ、これまでその遺跡は見つかっていなかったため信憑性が疑われていたのであるが、2000年の宇豆柱の発見で史実であることが判明した。そしてその社の雛形がこの田和山遺跡なのではというわけである。つまりスサノオが始めたかもしれない神殿の造営は少なくとも弥生時代まで続いていたということになる(もちろん、神社の原形がこの神殿にあるのであれば、現代まで続いていることになるのであるが)。
ここで重要なのは田和山遺跡が青銅器と同時代の遺跡であるということである。ということは、少なくとも青銅器を使用していた人々は、銅鐸の鐘の音を日常的に聞き、ときに銅剣や銅矛を使用し、さらには神殿を建て神々を敬い、かつ死んだら自分たちは黄泉の国にいくことになると考えていたことになる。彼らがスサノオのことを知っていたかはわからないが、もし知っていたとすれば、出雲でも重要な神様の一人だったに違いない。それでは出雲で最も重要な神様の一人、大国主命(おおくにぬしのみこと)の神話から青銅器を考えていこう。
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