読んでから観るか 観てから読むか
先週の金曜日、公開初日に「峠 最後のサムライ」を観た。しばらくは頭が熱を持っていたので、感想も述べれなかったけれど、ようやく平常心も取り戻したようなので、感想らしきものを述べてみたい。
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観てから聴くか、聴いてから観るか、それが問題だ
90年代初頭、何度目かの「ドアーズ」ブームが起こり、ぼくは初めてドアーズの音楽に触れた。ドアーズはアメリカのバンドで、60年代のフラワームーブメントとは意を異にするサイケデリックバンドだった。
オルガン、ギター、ドラム、ボーカルという4人組のベースレスバンドだったことも通常のバンドスタイルとは異なっていた。さらにはボーカルのジム・モリソンが天性の詩人であり、難解な歌詞を書くのだけど、見た目はハンサムでワイルドなセックスシンボルでもあった。
この二律背反な存在であるジムモリソンの魅力も相まって、ドアーズは唯一無比なバンドとして活躍した。しかし、70年代初頭、ジムモリソンはパリで謎の死を遂げて、ドアーズの活動は終わってしまう(ジムモリソンを除いた三人はドアーズ名義で2枚のアルバムを出したのだけど、いまいちで終わった)。
90年代初頭(正確にいえば1991年)、オリバーストーン監督がジムモリソンを主人公にした「ドアーズ」を制作した。それが何度目かのドアーズブームになる。その映画を見たぼくはドアーズに一時期、どっぷりはまった。
このオリバーストーン監督の「ドアーズ」は、(ぼくが思い出す限りでは)賛否両論を引き起こした。主演のバル・キルマーが全然、ジムモリソンに似ていないというのがその理由の一つであり、もうひとつはジムモリソンをただのセックスシンボルにしてしまっていて詩人の側面がおろそかになっており、深みがないというということであった。おおむね、ドアーズをこれまで愛してきたファンからの意見だった。
ぼくはその映画でドアーズを知ったので、そこまで言わなくてもいいのではないかと思った。新しくファンになった人はそんな感想を持ったのではなかろうか。
ちなみにこの年(1991年)、伝説のアーティストがなくなった年でもある。クイーンのボーカリスト・フレディマーキュリーだ。クイーンはぼくもよく知っていて聴いていたので、突然の死(エイズだった)はほんとうに驚いた。
みなさん、ご存じだと思うけれど、クイーンも特異なバンドで、海外では色物として扱われた時期もあった。フレディもジムモリソンと同じように強烈なキャラクターなので、なかなか理解されない部分もあったとおもう。フレディが亡くなったとき、クイーンが(正式な意味で)まっとうに評価されるのはもっと後だろうなと思った。
ご存じのとおり、2018年、映画「ボヘミアンラプソディ」で空前のクイーンブーム(というかフレディの再評価)が訪れる。約30年の時を経て、一般的な意味でフレディも再評価されたことになる。
この二つの音楽映画から、聴いてから観るのがいいか、観てから聴くのがいいか考えさせられた。このことは小説と映画にも当てはまると思ったからだ。
読んでから観るのがいいか、観てから読むのがいいか、それが問題だ
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「峠 最後のサムライ」は司馬遼太郎さんの歴史小説「峠」がもとになっている。
「峠」は文庫本で3冊(上・中・下)でている。その半分は主人公・河井継之助の人物像を描くために費やされている。司馬さん本人もこの難解な人物を描くうえで、長い前半部分を使わずにいられなかったと述べている。
確かにその通りで、前半部分で河井継之助の人物像を丹念に描いていっているからこそ、後半の激動の描写も説得力が増す。
映画「峠 最後のサムライ」はその後半部分から突然始まる。「峠」を愛読してきた方から観れば、おいおい人物描写に必要だった前半部分はどこいっちゃったのよと戸惑うことになる。
ぼくも大いに男泣きする予定でハンカチをちゃんと用意していたのに、ストーリーを追うのに忙しくって泣く機会を失ってしまっていた。
それでは「峠 最後のサムライ」が駄作なのか、と問われれば、そうではないと胸を張って言いたい。
確かに、河井継之助の人物像を描き出すには少々物足りないかもしれないけれど、そこは役所広司さん以下名優をそろえているため、見ごたえがある。
110分で「峠」を語ろうと思ったら、こうすべきなのかもしれないとも思う。
「峠」を読まずに、はじめて「峠 最後のサムライ」を観ても十分楽しめるのではないかと思う。ぼくは「峠」を読み込んでから「峠 最後のサムライ」を観たので、はじめて「峠 最後のサムライ」を観る人がうらやましい。
鑑賞後、改めて「峠」を読んでみると、意外なことに気が付いた。「峠」を読んでいると、前半部分でも河井継之助役の役所広司さんが目に浮かぶのである。おすが(河井の妻)役の松たかこさんも生き生きと小説の中で動きだす。そう考えてみると、「峠 最後のサムライ」も十分な役割を果たしたといえる。
なにせ、「峠」を映画化してくれただけでも、ありがたいことだ。なんどお礼を言っても足りないくらいだ。
ただ、唯一気になったことがある。
((小さな声で)映画館に人が少なかったことだ。どうか少しでもみなさんに見てもらえるように願っている。)
あまり、ながく「峠」に記事を費やすと、ヒトコトヌシが怒りそうなので、これくらいで終わろうと思う。明日からは通常運転で出雲神話について語っていきたい。
ゴゴゴゴゴッ
(やはり、出たな!)
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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