ブラジルお寺から朝のお勤めとお話し。『口伝鈔』第九章 ポルトガル語、原文、現代文「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」
おはようございます。
Bom dia a todos!
正信偈 Shoshingue p29
https://www.dropbox.com/s/yzwfdyup0v4wxn8/gongyo-shu.pdf?dl=0
Seguiu-se então um longo silêncio. Depois de um tempo, Mestre Genkū disse: "Quem é você e o que o traz aqui?"
O praticante anunciou: "Eu sou de Chinzei. Viajei à capital em busca do Dharma e agora busco uma entrevista consigo."
O Mestre perguntou: "Em busca do Dharma? Qual Dharma que você procura?"
O praticante disse: "Eu procuro Dharma do Nembutsu."
O Mestre assim perguntou: "Nembutsu? Nembutsu da China ou Nembutsu do Japão?"
O praticante fez uma pausa, pensou um momento, então respondeu:
"Eu procuro o Nembutsu da China."
O Mestre disse: "Você deve ser o discípulo de Zendo41!"
Nesse ponto, o praticante removeu uma pedra de tinta de sua manga e escreveu um nome de dois ideogramas e apresentou-o. Ele disse: "Eu sou Shōkō42 de Chinzei".
41
[Zendô Daishi] – outro nome para se designar Mestre Shan-tao
42
Benchô, 1162-1238 – se tornou um dos mais importantes discípulos de Honen.
グーグル翻訳
その後、長い沈黙が続きました。 しばらくすると、元久師匠は「あなたは誰で、何があなたをここに連れてくるのですか?」と言いました。
開業医は「私は鎮西派です。だるまを求めて首都に行きましたが、今はあなたとの面接を求めています」と発表しました。
師匠は「だるまを求めて?どのだるまを探しますか?」と尋ねました。
施術者は「念仏の法を求めます」と言った。
マスターはこう尋ねました、「念仏?中国の念仏ですか、それとも日本の念仏ですか?」
施術者は立ち止まり、しばらく考えた後、「中国の念仏を探しています」と答えました。
マスターは「あなたはゼンドウ41の弟子に違いない!」と言いました。
その時点で、施術者は袖から硯を取り除き、2つの表意文字の名前を書いてそれを紹介しました。 彼は「私は鎮西派の聖光です」と言った。
原文
しばらくありて空聖人仰せられてのたまはく、「御坊はいづこのひとぞ、またなにの用ありて来れるぞや」と。修行者申していはく、「われはこれ鎮西のものなり、求法のために花洛にのぼる、よつて推参つかまつるものなり」と。そのとき聖人「求法とはいづれの法をもとむるぞや」と。修行者申していはく、「念仏の法を求む」と。聖人のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところよりつま硯をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
花洛,華洛
(花洛から転送)
からく
花の都。京都の称。(口伝鈔 P.888, 講私記 P.1071, 嘆徳文 P.1080, 御文章 P.1112)
推参
すいさん
呼ばれもしないのに自分から訪問すること。(口伝鈔 P.888)
つま硯
つますずり
携帯用の硯。(口伝鈔 P.888)
二字を書きてささぐ
にじをかきてささぐ
二字は法名のこと。名を捧げ、弟子となること。(口伝鈔 P.888)
現代文
こうしてやや久しいあいだ、たがいになにも語ることがなかった。暫くたって源空上人が仰せられて、「あなたは何処の人か、またなんの用があって来たのか」と言われた。修行者は、「私は鎮西の者である。教えを求めるために花の都にのぼって来たので、そのためにこうして不躾ではあるが、お訪ねしたものである」と答えて言った。そのとき上人は、「教えを求めるとは、どの教えを求めるのか」と問われ、修行者は「念仏の教えを求める」と言った。上人が、「念仏はシナの念仏か、日本の念仏か」と間うと、修行者は暫く答えあぐんでいたが、しかし十分思案したうえで、「シナの念仏を求めるのである」と答えた。上人は「それでは善導和尚のお弟子である」と言われた。そのとき、修行者は懐中より携帯用の覗を吸りだして、二字を紙に書いて捧げた。鎮西の聖光房が、このひとである。
二 聖光房
聖光房弁阿(一一六三 ー 一三三八)、または弁長ともいう。升阿は三十六歳のとき、法然の門にはいり、のち故郷の鎮西に帰って善導寺を建てた。この弟子に良忠があり、教えをひろめたので、広く行われるようになった。これが浄土宗の鎮西派で、現今の浄土宗である。 『末代念仏授手印』、 『浄土宗要集』などの著がある。
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