お朝勤 並びに 『口伝鈔』 ポルトガル語版を翻訳 4章 「善悪二業の事」 現代語訳付き
おはようございます
今日は観無量寿経です
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E_%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C
O Sutra da Contemplação da Vida Imensurável
http://jodoshinshu.com.br/budismo-terra-pura/sutra-da-contemplacao-da-vida-imensuravel/
Capítulo 4
Sobre o karma bom e o karma ruim
Mestre Shinran disse uma vez: "Quanto a mim, eu não tenho nenhum desejo para com a bondade, nem temo o mal. Não tenho nenhum desejo de bondade, porque nenhuma bondade supera a mensagem do Voto Original de Amida. Não temerei mal algum, porque nenhum mal impede a manifestação do Voto Original de Amida
"No entanto, as pessoas comuns pensam: 'Eu devo acumular bom karma, caso contrário não alcançarei o Ir-nascer na Terra Pura mesmo que eu recite o Nembutsu. "Ou eles pensam: 'Mesmo eu recite o Nembutsu, meu mau karma é tão vasto, que não conseguirei o ir-nascer na Terra Pura." Nós nunca devemos nos deixar cair em qualquer umas dessas visões extremas.
"Se fosse possível dispensar o mau karma à vontade e acumular bom karma para satisfazer nossa mente, permitindo-nos escapar da transmigração sem fim de renascimentos e mortes e encaminharmo-nos para a Terra Pura, então conhecer o Voto Original seria desnecessário. Nós simplesmente não precisaríamos dele."
"Mas nós somos incapazes de controlar nosso karma. As pessoas comuns como nós, estão presas em um dilema, continuam a criar karma ruim, ao mesmo tempo que o temem. Também não temos certeza que estamos acumulando a quantidade suficiente de karma bom.”
"O Buda contemplou o Voto Original por cinco kalpas por compaixão para com os seres mundanos e ímpios como nós, que estamos cheios dos três venenos, transbordando karma ruim e gerando pouco karma bom, totalmente incapazes de escapar do samsara. Basta nos concentrarmos no Voto para receber o despertar da Fé da sabedoria do Buda."
"As pessoas pensam que se uma boa pessoas recita o Nembutsu, seu Ir-nascer está garantido e se uma pessoa perversa recita o Nembutsu, seu Ir-nascer é duvidoso. Eles deixam de apreciar o poder do Voto, desconhecendo sobre seus egos profundamente perturbados."
"O Buda fez um voto especial para acolher os seres comuns e não iluminados, com compaixão amorosa incondicional. Tendo passado por eras de práticas e contemplação, o Buda alcançou a Iluminação e cumpriu tal promessa. Como uma recompensa por cumprir a promessa, esta Terra da Recompensa, onde qualquer um e igualmente autorizado a entrar, foi criada. Outros Budas ainda não fizeram um Voto insondável e insuperável como esse.
"Não importa quanta bondade é acumulada em uma vida. Tal como a leitura e compreensão de todas as escrituras Mahayana, nosso desejo de Ir-nascer naquela Terra Pura pode nunca ser realizado."
"Além disso, se o karma ruim é uma condição que outros caminhos budistas presumem ser impossibilitaste, tirando nossa esperança, uma pessoa má transbordando de mau karma não tem chance de Ir-nascer naquela Terra.
"Todas as pessoas nascem com bom e mau karma, o que não qualifica ou desqualifica-os para alcançar o Ir-nascer na Terra da Recompensa. Como é que uma pessoa comum atinge o Ir-nascer de outra maneira além daquela encabeçada pela sabedoria do Buda Amida?
"E então eu digo: 'Não tenha medo do mau karma, nem deseje um karma bom"
Kakunyo comenta: Por este ponto de vista, o grande Mestre de Komyoji, Shan-tao diz21, "O Sutra Maior da Vida Imensurável explica o Voto Universal: cada ser profano com bom e mau karma intactos, atinge o Ir-nascer através da mais alta condição de assertividade, confiando no poder do Grande Voto do Buda Amida.”
Aqueles que nasceram com uma espessa camada de bom karma do passado preferem a bondade nesta vida e abominam o mal; aqueles que nasceram com uma espessa camada de karma ruim do passado, preferem o mal nesta vida e ignoram a bondade. Portanto, devemos simplesmente consignar bom karma e mau karma às causas e condições e deixar o grande
21
(Kangyosho Gengibun), introdução aos comentários do Sutra da Contemplação.
15
beneficio do Ir-nascer para o Outro Poder do Tathagata. O julgamento do bem e do mal não determina o Ir-nascer.
Da mesma forma, Mestre Shinran, uma vez disse: "Ouçam, vou contar-lhes uma maneira secreta de alcançar o Ir-nascer diferente do Nembutsu." Ele disse: " Vão e matem milhares de pessoas e você conseguirá facilmente o Ir-nascer. Você deve seguir este ensinamento. O que você diria?" Alguém protestou, dizendo: "É impensável matar milhares de pessoas quando não consigo encontrar em mim a capacidade de matar até mesmo uma única pessoa." Mestre Shinran continuou, "Porque você nunca virou as costas para os Ensinamentos, você não duvida do que eu disse. No entanto, dizendo que "Eu não consigo encontrar em mim a capacidade de matar até mesmo uma única pessoa" significa que nenhuma causa kármica do passado existe dentro de você.
"Por outro lado, mesmo que alguém advirta:" Tirar a vida é errado e se você fizer isso, seu Ir-nascer será barrado", você certamente iria cometer o crime, se uma causa passada existisse, uma semente em sua linhagem kármica.
"Aqui, os dois tipos de karma - bom e mau - determinados no passado se expressam. Quanto ao Ir-nascer, acumular bom karma absolutamente não nos salva, nem o nosso karma ruim impede a salvação. Prestem atenção nisso.”
原文
善悪二業について
(4)
一 善悪二業の事。
上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。
ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。現代文
四
1°
善と悪との二つの行為のこと。聖人(親鸞)が仰せられたことには、
わたしは決して、善を行いたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。善を行いたいと思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を犯すことも恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智慧を信ずるよりほかにはない。ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えない素質のものであることを知らないで終るのである。おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという(阿弥陀仏の誓いは、)阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智慧をますますはげしくたのむよりほかに、愚かな者にどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。と仰せられた。
これと同じ考えから、光明寺の善導大師は「弘願というのは大経に説くとおりで、一切の善悪の凡天にして生るることを得たものは、皆阿弥陀仏の大願業力に乗って増上縁としないものはない」と仰せられた。この文の意味は、「阿弥陀仏の広大な誓いは 『大無量寿経』に説かれているとおりで、善人にしても悪人にしても、愚かなものがすべて浄土に生れることができるのは、阿弥陀仏の広大な本願の力をたのんで、この本願を浄土に生れるためのたよりとしないものはないからである」ということである。したがって、「過去に善い行いを積んできたものは、この世では善を行うことを好み、悪を犯すことをおそれるし、過去に悪い行いを積み重ねたものは、この世では悪を行うことを好み、善とは縁が遠い。ただわたしたちは、いま行う善・悪は過去に行った善・悪の結果であると思い切って、浄土に生れるという最大の恵みは如来のお力にまかせて、けっして素質の善・悪に目をかけて、浄土に生れることができるとも、できないとも、決定してはならない」というのである。こうした考えから、あるとき、聖人が仰せられるには、「みなさん、念仏を称えるよりも、もっと浄土に生れるには容易な方法があるから、これを教えよう」といって、「人を千人殺したならば、容易に浄土に生れることができる。どうです、みなさん、それぞれこの教えにしたがっては」と言われた。そのとき、ある一人が言うには、「わたしとしては、千人など思いもよらず、ただの一人も、きっと殺すような気持ちにならないでしょう」と答えた。聖人は、重ねていわれた。
あなたはわたしの言うことに、日頃背いていないから、いま教えたことにも、きっと疑いをいだいてはいないと思う。ところがいま、ただの一人も殺すような気持ちにならない、というのは、過去にそれを行うような原因をつくっていないからである。もし過去にその原因をつくっていれば、たとい、殺生の罪を犯してはならない、犯すと、たちどころに浄土に生れることはできなくなる、といましめても、過去の原因に誘われて、かならず殺生の罪を造るにちがいない。善・悪の二つは、過去の宿業が原因として働くために、いまにその結果とあらわれたものである。こうしたわけだから、まったく浄土に生れるには善も助けとならないし、悪も妨げとならない」ということは、これによって推しはかることができるだろう。
註
一
善と悪との二つの行為のこと この章は 『歎異抄』第一章と第十三章に関連している。
二
善のたね 原文では「善根」。サンスクリット語のkusala-mūlaの訳語で、善本とも徳本とも訳する。その善がもとになって、そこからさまざまな功徳が生ずるから、こういう。
三
弘願というのは…… この文は 『観経疏』玄義分(真宗聖教全書一。四四三)に見えるが、次にこれを説明しているので、いまはことさら、読みくだしに釈しておいた。
四
ある一人 これは 『厳異抄』によると、唯円であることが明白であるが、これをことさらある一人としたところに覚如の意図するところがどこにあったかを知ることができる。解説参照
五
千人など思いもよらず…… この箇所の原文の表現は「某においては千人までは思ひよらず、1人たりといふとも殺害しつべき心地せず」とあって、すっきりしてはいない。いまは表現上のすっきりしない点をのけて、上のように訳した。これを 『歎異抄』にくらべると、より明白である。
歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)