見出し画像

積読の山がある限り、俺の中にはまだ余白がある。その余白があることが、俺にとっては正義であり、幸せなのだ。

積読。

それは、買ったまま読んでいない本が積み重なっている状態のことだ。世間では「読まずに放置するなんて、もったいない」とか「買うだけで満足してるんでしょ?」なんて言われることが多い。でも、俺は声を大にして言いたい。

積読は、正義だ。

ある休日の午後、街の本屋で衝動買いした一冊の小説が、俺の積読コレクションに加わることになった。タイトルはやたらと長くて、覚えきれないようなやつ。「〇〇と△△の□□が紡ぐ物語」みたいな感じのやつだ。正直、買った理由なんて特にない。表紙がちょっとオシャレだったから。それだけ。

家に帰ると、その本をそっと他の積読本の山の上に置いた。積読のピラミッドは日々成長を続けている。下の方の本は、もはや何があったのか覚えていない。たぶん、俺が大学生の頃に買った哲学書とかも紛れているはずだ。でも手を伸ばして確認する気にはならない。積読の底は、きっと地層みたいなもので、掘り返すのに勇気がいる。

積読の本たちを見ていると、なんだか安心する。読みもしない本が山になっているのに、なぜか心が落ち着くのだ。それはたぶん、まだ読んでいない「可能性」がそこに詰まっているからだと思う。

例えば、世界旅行に行けるような冒険小説もあれば、自分を深く見つめ直す哲学書もある。恋愛小説、ビジネス書、SF……ジャンルもテーマもバラバラだけど、全部が「まだ知らない世界」を持っている。

積読の山は、言うなれば「夢のストック」だ。いつでも手を伸ばせば新しい扉を開けることができる。それが積読の良さだと思う。

もちろん、「どうせ読まないんだから買わなきゃいいじゃん」と思う人もいるだろう。でも、俺は違う。

本を買うという行為そのものに、価値があるんだと思う。本屋で何百冊もの本を前にして、どれを買おうか迷う時間。それがすでに楽しい。お金を払ってレジで袋に入れてもらったときの満足感。それもまた楽しい。そして、家に帰ってその本を積むときの「よし、これでまた一歩知識人に近づいたかもしれない」という謎の充実感。

つまり、積読は買った瞬間からすでに役割を果たしているのだ。

とはいえ、積読の山をただ見つめるだけで満足しているわけじゃない。ときどき、ふと気が向いたときに、その山から一冊を抜き取ってみる。そうすると、「ああ、こんなの買ってたっけ?」と思うことが多い。たいていは、買った理由なんてもう忘れてる。でも、その時の気分に合う本を手に取れたとき、なんだか得した気分になる。

最近もそうだった。数年前に積んだまま放置していたエッセイ集を手に取ったら、読み始めたら止まらなくなってしまった。きっと、買ったときの俺にはピンとこなかった内容が、今の俺には響いたのだろう。積読は、そうやって時間を超えて「自分に合うタイミング」を待っているのだと思う。

だから、積読は正義だと俺は信じている。積読を責めるのは簡単だけど、責める必要なんてどこにもない。読まずに積むことで、その本たちは「いつか読まれる日」をじっと待ち続けている。そして、その日が来たとき、その本はきっと俺の人生を少しだけ豊かにしてくれる。

それに、積読の山が家にあると、なんとなく「俺、まだまだ勉強する余地があるな」って思える。人生は、たぶん、全部を読んで消化しきれるほど短くはない。その山を眺めるたびに、知らない世界が広がっていることを感じられる。それだけで、十分価値があるんじゃないか。

今日も俺は、また一冊、積読の山に新しい本を足した。読み終わる日が来るかどうかは分からない。でも、それでいいのだ。積読の山がある限り、俺の中にはまだ余白がある。その余白があることが、俺にとっては正義であり、幸せなのだ。

いいなと思ったら応援しよう!