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子どもの頃の忘れ物①

ここ数週間自分と向き合うことをしてきた。
その中のでの気づきをいくつかここに残していきたいと思う。

「誰かの役に立ちたい」
その思いは多分誰もが持っているもので、決して悪いことではない。

でも、「役に立たなければならない」や「役に立たない自分には価値がない」と、なってしまうと話は変わる。

「役に立たない自分には価値がない」
私はそれを持っていたことは前々からうっすら気づいていた。承認欲求なのか、いい人でいたいのか。
存在するだけでも誰かの役に立ってることを知っているはずなのに。寧ろ伝える側なのに。ずっとそんな思いを持っていた。

そのきっかけのひとつを思い出した。


姉が入院したのは私が小学5年生の時だった。
入院するとなった日のことは覚えていないけれど、姉が中学2年生の時から入院してるから、私は5年生だと計算してわかったこと。その頃の記憶は本当に断片的で、思い出したくないこともたくさんあるんだろうなと思う。

小学生だった私は姉の面会にも行けず、(でも一度だけ連れてってもらった記憶はある。母は反対してたけど父が半ば強引に連れて行ってくれた記憶)姉の本当の病名すら教えてもらえなかった。
姉が統合失調症だと教えてもらったのは、多分大学生になってからだったと思う。

子どもだから、病棟に入れない。
子どもだから、病名を知らせない。
子どもだから、何も知らなくていい。

その時の両親の気持ちもわかる。
私が同じ立場だったら、やっぱり同じことをしたかもしれない。
病棟に入れないのはルールだしね。
仕方ないことだってモリモリある。

だけど、子どもながらに役に立ちたかった自分がいた。
役に立ちたいけれど、役に立てない自分。
そんな自分には価値がないと思ったひとつの出来事。


何もできないかもしれないけれど、(実際できないけど)一緒に悲しんだり、悩んだりはできたんじゃないか。
いや、それをしたかった。
父と母だけで抱え込まないで、一緒に分かち合いたかった。
家族の一員として、一緒に乗り越えていきたかった。


そんなこと思ってたんだな、私。
そう気づいたらラクになった。
「役に立ちたい!」という思いを、ずっと抱えていたんだなぁ。

だから頼み事も苦手だったし
なんでも自分でやろうとしたり
抱えこみすぎてしまったり
(そんで周りに迷惑かける悪循環)


子どもの頃のこと。些細なこと(じゃないかもだけど)が、こんなふうに今に繋がっていくんだということを改めて体感した。
私の忘れ物をひとつ、取りに行くことができた。



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いしかわ いづみ
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