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ハゴロモの森 3

「天女の羽衣の本当の意味って知ってる? あれはね、処女膜の隠喩なの」
 リンは美しい中学生だった。例えようもなく美しかった。僕は中学でリンに出会うまでこんなにきれいな女の子を見たことが無かった。
 リンは射るような強い視線をしていた。どんな物を見つめる時も、それは変わらなかった。色の黒いまっすぐな視線。見つめただけで人を殺す化け物の視線。それでいて、縋り付いてくるような弱弱しい視線。僕は目を背けた。いつだってリンはまっすぐ僕を見つめていた。だから、僕はその視線から逃げたくてしようがなかったのだ。
 美しい黒髪をしていて、長く伸ばしていた。校則では長い髪は一つが二つにまとめなくてはならないのだが、リンはいつもそれを無造作に流していた。
 教師は何も言わなかった。リンは在学中にめまぐるしく名前が変わった。初めは小林、次が徳田、それから森山。その合間に長嶋リン。
 母親がだらしないからだ、教師が話しているのを僕も聞いたことがあった。そんな風にリンは生きていた。
 リンは美しい中学生だった。そして、ネグレクトされた家庭に育った子供だった。リンの母親は売春で生計を立てていた。家に男を引きこんで。そしてそんな男達と気まぐれに結婚する。リンの母親にとって男は洋服みたいなものだった。気分によって、とっかえひっかえする。これはリンが僕に語った言葉。
 学校側は、まるでリンのせいであるかの様にリンを扱った。他の生徒に良くない影響を与えると。
 母親にエンコウをさせられているんだよ。そんな噂もあった。母親に男を取らされていると。実際それは教師の口に上がったことだったかもしれない。僕たちはみんなそれを信じた。リンには、そう思わせる陰があった。持って生まれた陰だ。暗い深い黒い一対の目が生み出している陰。揺るぎ無い陰だ。口を開けた剣呑な沼みたいな目だった。そこに囚われたら、二度と出られない。
 僕とリンは三年間同じクラスにいた。そして僕はリンの名前が次々に変わっていくのを見ていた。リンは嫌われ者だった。
 オンナ過ぎた。あの女は、オンナだった。男子も女子も教師も、みんなリンを嫌っていた。そして今なら分かる。みんなリンを恐れていたのだ。自分たちを一足飛びで駆け抜けてしまったリンを。
「天女の羽衣ってね。処女膜の事なの。天女は処女だから神聖性を帯びていて、不思議なことが出来たのよ。空を飛んだり。
 だからね、羽衣を取られて天に帰れなくなってしまったと言うのはね。地上の男に犯されて、ただの女になってしまったから。聖性を失って天に帰れなくなってしまったのよ」
 リンは良く僕に絡んできた。迷惑だった。
「でも最後には隠されていた羽衣を見つけ出して、天に帰ったじゃないか」
 僕は面倒くさくて、適当に返事した。
「いいえ、それは違うの。その女は女のまま死んで、また別の女に生まれ変わったのよ。羽衣を失うと、女は死んでしまうの。処女膜が新しく備わるためには違う女にならなくてはいけないのでも、生きているうちは無理。だから土地の男に侵された天女は、ただの人の姿になって一生汚い人間の生を送ったのよ。でも逆に言うと、死にたくなったら、羽衣を誰かにあげちゃえばいいのかもね」

「リンだよな」
 僕は記憶の間から無理やり湧いて出る光景を全力で無視する。リンは自分のために当てがわれた机で、弁当を食べていた。
 地味な弁当だった。炒め豚肉と、茹でたにんじんと、ブロッコリーと、卵焼きが入っていた。いかにも一人暮らしの中年が作って持ってきました、といった感じだ。僕はその地味な弁当が妙に忌々しかった。手作りであることが明らかだったから。お前は、なぜ、こんなところで、手製の弁当なんて食っているんだ。お前が自分で弁当を作っている。色の悪い地味な弁当を。僕はリンの姿に怒りが湧いてくる。そんな弁当を喰うな。
 語調から、僕がリンに食って掛かっているんだと思って、他のバイト二人は縮こまっていた。気弱な人たちなのだ。リンは何も言わなかった。まっすぐに僕を見据えたまま、卵焼きを口に含んでいた。
 僕は、リンが咀嚼を終えて何かをしゃべりだすのを待っていた。リンは驚くほど長く玉子焼きを口の中に入れていた。
「誰ですか」
 ようやくリンは僕に応えた。何の感情も無い声だった。
「日尾だよ。中学の時に同じクラスだった」
 リンはまた沈黙した。そして、ただ、僕のことを見ていた。僕はイライラした。ほらまただ。どうして僕のことをそんな目で見る。獲物が沼に落ちてくるのを待っている化け物みたいな目で。何か言え。どうして黙っているんだ。
「すみません。ちょっと覚えが無いんですけど」
 耳を疑った。
「長嶋リンだろ? 辰川二中の三年一組だった」
「そうですけど」
「じゃあ覚えてない筈がないだろう。日尾だよ。同じクラスだったんだよ」
 リンはにっこりとほほ笑んだ。
「すみません。覚えてないです」
「覚えてない?」
 冗談だろう。お前が僕に一体何をしたと思っているんだ。
「ごめんなさいね。わたし、都合のいいことはなんだって忘れてしまう性質なんです。確かに辰川二中にいましたけど、あなたのことは、ごめんなさい。覚えてないです」
「冗談だろう、」
 と言いかけて、まさかここでこの女が僕に何をしたか、言う訳にもいかず。
「そうですか。失礼しましたね。」
 と、言って僕は昼飯を食いに行くことにした。とにかく。今日はこんな話をしていても仕方がない。


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