ジャッジしない優しさをもちたい
物事には多くの見方や視点があります。その中の、どの視点から、その物事に向き合うかによって、自分の意見や感じ方が大きく変化することは言うまでもありません。
わたしは、自分が活動していることの内容をできるだけ多くの人に知ってもらうために、いくつかのSNSを利用しています。その中でも、いつも「怖い」と感じてしまいがちなのが Twitter です。
Twitter は発信できる文字数も少なく匿名性も高い。そのため、投稿した、たった数行の文字列を読んだだけで、投稿者の状況を把握したつもりになってしまい、安易に言葉を投げつけているケースが散見されます。
例えば、「お金がなくて子どもに1日2食しか食事を与えられていません」という投稿に対し、「あなたがしていることは虐待です!」「インターネットができるお金があるのならそのお金を子どもの食費にあてるべきです!」など。
投げつけている言葉自体には特に何も感じませんが、たった数行のみの情報だけで、「こうだ!」「ああするべきだ!」と決めつけてしまう行為の多さに驚きます。
人は誰でも、生活していく中で何らかの偏見を持っています。そして、それと反するものと出くわした時、反射的に拒絶してしまうものだと思っています。だからこそ、「別の視点から見てみよう」と心がけることが重要だと感じています。
先日運転中に、50メートルほど前方が赤信号だったので、左の脇道からこちらの車線に合流してこようとしている車に道を譲りました。すると、後ろの車にクラクションを何度も鳴らされました。「道など譲らずに早く前へ進め」という意味だったのだと思います。一緒に車に乗っていた子どもたちはとても驚いて、「どうして譲っちゃいけないの?」「ぷっぷー!ってびっくりするのにいじわるな人だね!」などと、クラクションを鳴らしてきた運転手さんに向かって言っていました。
そこでわたしは「ほんとだね。ママもびっくりしちゃった。でもさ、あの人はひょっとしたら1秒でも早くどこかへ行かなくちゃならなくて焦っているのかもしれないね。」と問いかけると、「あ!そっか!病院へ行くのかもね!」「お仕事に遅れそうなのかもよ。」と、子どもたちはあれこれ想像力を働かせます。「あ、社長は、う○ち漏れちゃいそうな人なのかもって言ってたよね!」と、植松電機の植松社長の講話でお話ししていた内容を持ち出し、車内は一気に笑いに包まれ明るいムードに。(※ 植松社長は講和終了後、気を付けて帰ってね。また会おうね。どんなに乱暴な運転をする人に出会っても、イライラせず安全運転でね。と、笑い話を交えて参加者によく呼びかけてくださいます。)
別の視点から見るということは、視野を広げるだけでなく気分を変えることにも役立ちます。
離婚するひとってやっぱりちょっと問題あるよね
発達障がいの子どもを持つ親ってヒステリックなイメージ
食生活が悪かったりだらしないから病気になったのよ
今まで聞いてきて数々の偏見のある言葉。人の家庭の中のことを外の人間が理解できるわけがない。その人の立場に立たないと、その人が味わった苦しみなどわかるはずもない。発達障がいのある子どもを持つ親がヒステリックなのだとしたら、その親の目線に立って想像してみる努力をしたことがあるのか。それだけ日頃から大変な場面があり、精神的にギリギリの状態で精一杯頑張っているということかもしれない。むしろ、ヒステリックだなどと偏見の目を持ち見ていること自体が、親御さんを苦しめているとは思わないのか。食生活が悪くだらしないから病気になった?そんな証明しようもないことで人の心を追い詰めるような発言をして、一体それは誰のため?なんのためになるの?
と、偏見がある言葉を聞いて、「そんなの間違っている!」と決めつけ、偏見を持ったわたしが言い返した言葉の数々。どっちもどっちですね。
世の中は、軽率で安易なジャッジに溢れている。だからこそ、別の視点で物事を考えられる余裕を常に持っていたい。
他人へだけでなく、自分にもすぐにジャッジをしてしまう人もたくさんいる。「こんなわたし最低」「どうして出来ないの!」と。他人から見れば最低でもなんでもないし、それが出来ないことくらい大した問題ではなかったりする。
ジャッジしないで、自分にも優しくしてあげてほしい。確かにそういう面もあるのかもしれないけれど、「それが全てではない」ってことを忘れないでほしい。
心無い安易なジャッジに心を痛めないでもらいたい。その言葉は、あなたを判断する要素を何一つ含まない、なんの意味も持たないただの「言葉」なのだから。
ジャッジをせず人に寄り添うためには、自分の心に余裕があることが必須だ。だからこそ、まずは自分に優しく、常に余裕を持ちながら行動できる人でいたい。
「ジャッジしないで」 わたしは今日も自分に言い聞かせながら、子どもたちに別の視点で見てみようと問いかける。