![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/101907354/rectangle_large_type_2_a125745d29aaeb8159779a890f60ee56.png?width=1200)
あなたは一生懸命に生きていますか?
4月2日 晴れ
いきなりですが『人間の尊厳』って考えたことありますか?
今日動画を観ていたら、そんな言葉が出てきて。
あ、と思ったので、ちょっと調べてみました。
尊厳とは、
とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。
すべての人間は自由に生まれ、尊厳と権利において平等である
尊厳の観念は、いかなる人間に対してもそれ以下の扱い方はすべきではないという、ある種の尊敬と配慮、つまり閾値を意味する。公に認知された個人の業績の具現化としての価値と異なり、個人は人間であるというだけで尊厳がある。
すべての人間は、性、年齢、社会的身分、または民族に関係なく、尊厳において平等である。
この概念は、特定の人間的に相応しい特性が具現化されたときに生命を評価する質の倫理ではなく、共通の人間性の観点からすべての人間に価値を見出す平等性の倫理を採択する。
尊厳は獲得されたり失われたりすることはできない。どのような人間であっても、たとえ重度の障害者であったとしても、人間の尊厳を失いはしない。自由が法によって否定されても、 尊厳はなお存在しなければならない。
わたしたちは、生まれながらに、尊くおごそかで、気高く威厳のある存在であると定められていて、それは、不可侵な権利であると世界で認められています。
どこに生まれたかとか、お金持ちだとか、貧しいとか、地位があるとか、容姿がどうとか、健康かどうかとか、才能がどうかとか、そういうのは一切関係なく、全ての人間に同じく価値があって、平等だとされているのです。
その意識は、不思議なことに、この平和で平等で安全で暮らしやすいとされているわが国日本では、希薄なように感じます。
学生のとき授業で「人権」については、学んだけれど、教科書の話って感じで、わたしは自分ごととしてとらえられていませんでした。
そもそも、そんなことを意識しなくても、普通に安全に生きられて、明日ご飯が食べられないかもしれないなんて心配もないし、教育も当たり前に受けられるし、なんらか働き先を見つけることもそこまで困難ではありません。
大きく差別されたり、生命の危機に直面することがない代わりに、社会の常識とか、普通とか、適齢期とか、からはみ出さないようにちゃんとして、出る杭にならないように人の目を気にして平均的に生きるよう教育されてきました。
全てを人並みにできるように、人の迷惑にならないように、人の役に立つように、社会から見張られ、怒れたくないから、自分で自分を見張って、自分で自分を制限して、自分で自分を責めるのが、正しいとされているわけです。
人からできてないことを責められたなら、当然の反省すべきこととして受け入れ、ますますできない自分を責める負のループ。
それは、世界で約束されている絶対不可侵な自分の尊厳を自分で踏みにじる行為なわけです。
物質的に豊かでなんでもあるように見えて、何よりも大切な自分の尊厳をなくしてしまっている。
それに引き換え、スラム街に住むアフリカの子どもたちは、物質的には何もなく、明日ご飯が食べられるかもわからないのに、目をキラキラさせて学校に通い、自分の夢を語っていました。
そして、「自分たちには何もないけれど、夢があり、その夢を叶えることで多くの人の希望になりたい。人間の価値は、貧しい人も裕福な人も変わらず、同じだ。」と、動画では話していました。
物質的には貧しいけれど、人間の尊厳について、理解し、自分の尊厳を自分で守ることができているわけです。
そして、毎日「生きる」ということに全力。
さて、どちらが豊かな生き方だと言えるのでしょうか?
やろうと思えば、ある程度なんでもできるのに、人の目を恐れて、失敗を怖がって、些細なことをめんどくさがって、できない言い訳をして。「あー、今日もなんもできんかった」って言って、1日を終える。
そんな自分が恥ずかしいと思いました。
もっと一生懸命に生きたい。
いのちを全うしたい。
この世を去るときに後悔したくない。
そして、少しでも誰かの希望になるような生き方をしたい。