長編小説 『蓮 月』 その二十
旅館に戻る間、二人は何故か沈黙を守っていた。喜びと感激とこの軆󠄁を巡るエネルギーに圧倒されて、足が地に着かないそのような面持ちで部屋に帰った。朝食は合図をすれば運んでくれる段取りだったが、二人とも食べる気にはならなかった。珈琲と果物だけを頼み、それが運ばれるのを縁側の椅子にもたれて庭を視ながら待った。
その庭の風景もこゝろには入ってこず、秋の空を見上げるだけだった。仲居が「お疲れ様でした。どうぞ珈琲と果物です。ごゆっくりどうぞ」と言ってすぐに部屋を出た。其れを合図に唯が、「よろしおましたなぁ・・・ほんまに夢のようや」「色んな体験をして来たけど、今朝の禊ぎの体験は圧倒的だったね」「なんか、何でも出来そうな気がしませんか・・・ほんとうに驚きですわ」「ほんとうだね」二人は禊ぎの余韻に暫し漂い、その時を愛しく想い、感謝の気持ちで一杯であった。
結局、チェックアウトの十時まで、二人は、空を視て、視つめあっては微笑んで・・・会話らしい会話には至らなかった。
二人は呼吸を合わせると何となく相手の想いが伝わるような感覚が少しずつ敏感になって来ているのを意識せずにはいられなくなった。
つまり言葉を交わす必要がなかったのだ。
タクシーで金沢の駅に着いた。「宮司を紹介してくれた瑶子に礼を言いたいので、小一時間いただけませんか?」「勿論、僕も礼を言いたいから」「それじゃ、連絡いれますね」唯は連絡を入れた。
「瑶子、私、今禊ぎを終えて金沢の駅にいるの・・・ちょっと会えないかな?彼と一緒でお礼を言いたいの」
「いや、そんなに気を使わなくても大丈夫よ・・・どうしてもというなら、駅まで私が行くわ」
「そう、じゃぁ、駅に隣接したホテルの喫茶で待っています。急がなくてもいいからね・・・」
「うん、うん、ありがとう 十五分位かな・・・では」
静一はその会話を見届けて、
「何かお礼のものを探す?それとも・・・」「今日は、とりあえずお菓子を渡して、家に帰ったら、私の作品を改めておくるわ」
「うん、わかった・・・じゃ名店街に行こう」「はい、そうどすなぁ」二人は贈り物の品を定めて買って、ホテルの喫茶に急いだ。
ほどなく、瑶子が現れた。静一が立って、「上元静一と申します。
この度はありがとう御座いました。とても素晴らしい体験をさせて頂きました。ほんとうにありがとうございます 」と深々と礼を尽くした。「まあまあ、そんな風に言われると恥ずかしくなりますなぁ・・・初めまして鳴尾瑶子です」二人の挨拶を見定めて、唯は、瑶子を抱きしめた。
これには、さすがに瑶子も驚いたが、その抱きしめた唯の軆󠄁が明らかに違っていることに気がついた。瑶子は背中を軽く叩いて「もう、いいでしょう」とゆっくり軆󠄁を離した。
「おおきに・・・おおきに」「お力になって良かったです、でも私は紹介しただけですからね」と二人の大層な礼に瑶子はタジタジとなった。
飲み物が運ばれて来て、小林宮司との出会いを瑶子から聞くことになった。宮司は、京都生まれで小さい頃から神社に惹かれて京都のほぼ全神社を巡り、宮司になりたいと考えて、三重県伊勢市の皇學館大学神道学科に入学し、伊勢神宮の祭典や行事(神嘗祭・月次祭の奉拝や祭員奉仕)などにも積極的に参加して、ひたすら神職の道を探求された。
卒業後、滋賀県の神社の奉職を皮切りに、何故かどんどんと北上し、富山県、石川県の一の宮の神社に奉職し経歴を積み重ねて、白山神社に迎入れられ、五十代で宮司となり古希を節目に名誉宮司として、一線を退き年間の大切な行事のみに参加、又若手の勉強会などをされているということであった。
「それでね、宮司は家が錦市場の近くだったから、美味しいものに眼がないのよ。内の旦那の割烹料理が京の味がすると言って、贔屓にして頂いて・・・それがご縁で私の仕事が行き詰まった時に、禊ぎを薦められて・・・以後順調でね・・・だから、唯に薦めたの」二人は話を聴いて、色々と合点がいった。それにしても世の中細い糸ながら、縁があると世界は・・・想いもかけぬカタチを創ることになると、心底思った。
天地人と自然との融和を心がけるだけで、道は拓けていく・・・その道が困難であれば、それは魂の修行をさせて頂いていると感謝するのだ。すべからく人は、生まれたからにはお役目と学びがある・・・生きている、生かされていることがもうそれは奇跡なのだ。
二人は、もう迷うこと無く為すべき事を一つ一つ大切に丁寧に為せば・・・それだけで良い・・・その想いで二人は自然と、相対する世界にとても優しい気持ちでいられるようになった。
夕刻に京都に着くサンダーバードの特急列車に乗り、道中二人は、
九月一八日の誕生日をどう迎えてどう過ごすかで話あった。
「禊ぎの後、何だか拘りが無くなって、今、静かに流れている此の儘が一番良いような気がして・・・でも、カタチは創らないとね・・・」「う~ん、難しおますなぁ・・・私も、何か特にという気持ちが起こって来ないので・・・」
「じゃぁ、三つ候補を出すから選んで・・・良いかな」「はい、ようおます」「その一、お礼参りを兼ねて、白山神社に詣でて、白山の旅館に泊まる。その二、唯が育った奈良三輪山の大神神社に詣でて、吉野の旅館に泊まる。その三、とりあえず、一七日一八日は予定を一切入れず、一六日の夕刻に決める。どうだろうか?」「一も二も嬉しいどすけど、やっぱり三ですなぁ・・・」「やっぱり、そうなるよね」二人は気持ちよく笑った。
其れまでに二人はそれぞれ、やらなければならないことがあった。
唯は、個展の準備が八割方出来てはいたが、後の残りの作品は信楽焼の友人と二人で野焼きで焼いて、更に釉薬を塗って焼かねばならないので、十日前後は時間を取られる。つまり一六日まで会えないということ。そして静一は、百合との契約の履行の為に、少なくとも数社は友人に引き継がなければならなく、ほとんど大阪のクライアントが主となるので、これも互いに相手との相性があるので、時間が掛かることになる。つまり、二人は一六日迄、ほとんど会えないことになる。 でも、その空白が二人には必要な気がして、取りあえず十七日と十八日は、二人とも予定を完全オフにして、十六日の夕刻に唯の家で会う約束をして、京都駅で別れた。
その二十一に続く