長編小説 『蓮 月』 その一八
宿から暫く歩くと神社の参道に入った。石の参道は、碧の苔に挟まれており、夜には少し光って視える・・・点在する小さな社があるが、それらは遠くから礼をするだけに留めた。
白山中居神社の鳥居を過ぎると、九頭竜川の源流となる川が流れている。せせらぎを進むと皐月から水無月にかけて白い水芭蕉が視られるという湿地帯を越え、一の鳥居を越えて、川で参拝前の手洗いをした。
二人は声を掛け合うこともなく、自然に寄り添って同じリズムでゆっくり歩いている・・・なんだか呼吸まで共鳴しているような気に二人はなった。
手水舎で改めて手と口を清め、御神殿での感謝の礼を済ませて、灯りがついている社務所で、名前を述べて、「小林宮司をお願いします」と伝えると「お聞きしております。ご案内致します」と若き神官が参集殿まで案内してくれた。「こちらでお待ちください。程なく参ります、失礼します」と礼をして去って行った。この参集殿は中央の襖を開ければ、数十畳の広さがあると見て取れた。
座布が三枚中央に三角形をなして敷かれていた。その座布には座らず、三歩ほど下がって二人は正座して、入り口の方を向いて待つことにした。
「あぁ、緊張しますね」「ほんまどすなぁ」「でも、二人で禊ぎなんて、ほんとうに信じられない成り行きどすなぁ」「う~ん、全くそうだね・・・でも根っこの処でほんとうは、そんなに驚いていない自分がいるんだ」「なんでですか?」「だって、僕がニューヨークに発ってからの唯の行動を細かく聞いていると・・・何だか必然の様な気がするんだ」
「君は何かに突き動かされて、<海から昇る初陽を視たい>というその想いに忠実に辿っていくことが、一つの導きになって・・・白山での禊ぎという想像にもつかない現実が、今の今始まろうとしている・・・
全く僕達は・・・・・・」「夢で始まった物語なんやから、この成り行きも偶然のように視えて必然なんでしゃろうなぁ」二人はまた頷き微笑んだ。
入り口では無く、中央の襖が静かに引かれて、宮司が入ってこられた。宮司は、銀髪の長い髪を後ろで無造作に結び、浅黄色の作務衣を着込んでいた。表情は、もうこれ以上の微笑みの顔は無いというようなとても優しい顔で二人に対した。
「初めまして、小林と申します」先に唯が「鹿海 唯です。この度はほんとうにご無理を引き受けて頂きありがとうございます」「上元静一と申します。私までも禊ぎの機会を頂き誠にありがとうございます」二人の自己紹介を聞くと、二人に用意した座布に座るように勧められた。着座すると、宮司は二人の顔をまじまじと視つめた。
そして徐に「禊ぎは初めてですか?」唯が先に言った 「私は、奈良の大神神社の巫女をしておりまして、幾度か経験しております」「僕は、三輪山で一度だけ、後夢の中で二~三度あります」「ほぉ~夢視の中での・・・面白いお方じゃ」その後、暫く瞑目されて、「ではまず、課題であった祝詞を諳んじて唱えられるかを視てみたいのじゃが・・・多分禊ぎでの真言あるいは祝詞を滝水に打たれて唱える時は、その冷たさに負けじと大声を出して唱えた筈だと思うが・・・此処での祝詞はひたすら静かに謂わば子供に読み聴かせるような優しさをもって唱えて頂きたい」二人の理解の程を探るように宮司は二人を視やった。
ある意味、思いがけない謂れで二人は戸惑ったが、この宮司の発する福相と並々ならぬ姿勢からは、一つの反語や疑問も浮かばずこゝろに言葉が入ってくるので、二人は大きく頷く他はなかった。
「では、最初に私が唱えるのでお聞き下され・・・」宮司は居住まいを正すと、祝詞を唱え始めた。それは、ほんとうにこゝろに響く音霊で、小さい頃母親に童話を読み聴かされてそのまま眠りについたことを連想されるほどだった。約一五分の時間はあっという間に終わり、聴き終えた二人は心身ともに浄化され、こゝろの想いが透明になり、この宮司に対して、畏敬の念が自然と浮かんだ。
「どうじゃな、気負わず、自然と言の葉の律動に任せて読みすすめるのが肝じゃ・・・」静一が言葉を開いた「とても、素晴らしかったです。心身共に浄化されて・・・」後の言葉は蛇足のように感じて唇を閉じた。その間を繋ぐように唯が「私もです・・・宮司の言葉の響きは、深く深くこゝろに染み渡りました。涙が出そうになりました」と感謝の想いをお辞儀をして宮司に礼を捧げた。
「ふむふむ、二人とも良いこゝろ根をお持ちじゃ・・・鳴尾女史の頼み故一つ返事で引き受けたが・・・良かった良かった・・・では、唯殿から唱えて頂こうかな・・・そうそうその前に言い伝えることがある。
一つだけ気をつけて頂きたい下りがある。気がつかれたと思うが、この箇所は声に出さずに黙読して頂きたい」と改めて祝詞のその箇所を二人に認めさせた。
「はい、わかりました」「では、お願い申す」
唯もまた居ずまいを只して、暫し瞑目の後、祝詞を唱え始めた。唯の声は、先程の宮司の音霊に共鳴することを強く意識して発語しているように静一は感じた。唯の放った音霊は、宮司の音霊に重なるように、静一のこゝろに響き渡った。
そして、静一の番となった。二人の祝詞を聞き込んだ心身は、それに導かれるように、軽やかに、そして厳粛に参集殿に響き渡った。宮司は、大きく頷き「舞台に出ても大丈夫なほど旨く語られた。お二人とも達者じゃな・・・さて、二人ともよくお聴きなさい。禊ぎを受ければ、これから先予知夢とかそれに類する夢を視ることは、ほとんど無くなる筈だ・・・もし又それらの夢を視ることになった時は、私に連絡を入れなさい。その夢の記憶を一瞬にして氷塊させてみせる故。しかし、念の為に二人に『鎮魂の秘印』なるものをお教えしよう。宮司は二人に近づき両手の指を組み合わせて、ある形を作った。それは、それほど難しいモノではなくすぐに覚えられた。
「では、一度正座をして、、丹田に意識を集中してその秘印を結び、呼吸は腹式呼吸で鼻から吸って口から斜め下にゆっくり吐き出し、ひたすら心身を<無>の境地へと導くのじゃ・・・祝詞は上げなくても良い」 二人は言われた通りに心身を整え瞑目して『鎮魂の秘印』を組み呼吸を意識してその境地に入いり、其の儘の姿勢と呼吸で時が過ぎた。
三人の座した位置は密度の高いトライアングルの空間と化して、『頭は空 こゝろは無 身体は虚』となり、共鳴した。どれ程の時が過ぎたのか・・・わからぬままに唯と静一は今までにない境地のなかで浄化されていった。時を見計らった宮司が声を掛けた。
「大きく息を吐いて、普通の呼吸に戻りなさい。禊ぎ前の心構えの儀はこれにて終わると致す。お疲れ様」二人は同時に「ありがとうございました」と深く礼をした。そして、静一は宮司に「早朝の禊ぎまでの時間は如何に過ごすのが宜しいのでしょうか?」と問うた宮司は笑いながら「もう、何もしなくても良い・・・隅にある座布を使って休まれよぅ」
懐中時計を見やって「夜の十一時じゃ、四時迄仮眠を取りなされ、日の出は五時半前後、此処の出立は四時半じゃ・・・それぞれ禊ぎの衣󠄂に着替えて、その上から作務衣を着込んでの出立となる・・・良いかな?」「はい、わかりました。明日も又宜しくお願い致します」と唯が答えた。「では、明朝に・・・」改めて二人は深々とお辞儀を重ねた。
宮司はまた中央の襖を開けて出て行かれた。二人はまた座り直して互いの顔を視遣った。
どちらが先に言葉を紡ぐのかと二人して迷い、間が空いた。唯が先に発した「すごいお人が、この世にはいはるんどすなぁ」「ええ、凄いの一言ですね・・・僕らの迷いは、まるでママゴト遊びみたいに感じてしまいました」「そうどすなぁ・・・でもほんとうに心身とも癒やされました・・・もう禊ぎを受けたやうなもんですなぁ」「お勧め通り、座布を並べて少し休みましょうか?」「はい、そうしましょう」二人は立ち上がり、隅にある座布をそれぞれ三枚ずつほんの少し隙間をあけて縦に並べて、横になった。
竿縁天井は、ほぼ正方形に刻まれており、その檜の板の曲線の模様がとても美しく感じられ静一は凝視した。檜の幾重にも重なる緩やかな文様は、時の詩を刻むように生命の証としての美しさを秘めていて、一枚一枚が独立した記憶を語ると同時に、他の文様と共鳴して自然の営みを秘かに映し出しているようにも視えた。
唯が右手を静一の方に向けてゆっくりと差し出した。静一はその動きに応じて左手を差し出して唯の手の上に載せた。互いに手をさらに差し伸べて、相手の手首を軽く握った。清浄なこゝろに少し風が吹いたが、それは一瞬のことで・・・二人は言葉を紡ぐことなく<一なるもの>の境地で深い絆を結んだ。 そして胸に置いた手を数糎上げると二人は又トライアアングルを意識して、その空間に二人の世界が凝縮されてあるのを意識した。
時は止まった儘に朝になった。
時計のタイマーは、三時五十五分にセットしてあり、鳥の囀りが目覚めの合図だった。
ほぼ同時に目覚めて、手を解き、ゆっくりと座布に座り直して相手を直視した。
二人とも満ち足りた良い顔していることを認めて微笑んだ。静一が言った「おはようございます。今日もよろしく」「はい、おはようございます。今日もよろしくね」「じゃぁ、部屋の左奥に洗面所あるので、そこで顔を洗って、身なりを整えますね」「わかりました。終わったら交代しましょ」互いに十分程で身支度を調えて、宮司が来るのを待った。
その一九に続く