道綱母を見習って「合議」の道へ
決断ではなく「合議疲れ」
「決断」という言葉に着目して今のところ議論を進めているけど、よくよく考えてみると、疲れていたり忌避している対象は果たして本当に「決断する」ということなのだろうか。マガジンの第一回の議論に戻るが、一人で決断をするのであればそこまで疲れる必要はない。大澤真幸が繰り返し述べるように、もちろん選択することでリスクが生じるわけではあるが、個人で決断をすることは容易である。
だとすれば、一体何を忌避し、何に疲れているのか。それは「決断すること」ではなく、「合議すること」である。他者と対話を繰り返して、両者(あるいは三人以上)の間で妥結点を見つける営み。両者の要望が両方完璧に実現することは決してあり得ない。両者は自分の望みと、現実的な解決策の間にあるギャップをできるだけ小さくするべく、言葉によって対話を積み重ねていく。
前回取り上げた『舞姫』の太田豊太郎、『こころ』の「私(先生)」はまさにこの「合議」から逃避した男性たちの物語である。
豊太郎は妊娠が発覚したエリスと、天方大臣と共に日本に帰らなければならないということを合議しなければならなかった。エリスを日本に連れて帰れないかもしれないが、豊太郎自身が遠方の日本からエリスを支援するということはもしかしたら可能だったのかもしれない。しかし、豊太郎が意識を失っているうちに相沢の手によって一方的に(合議することなく)豊太郎とエリスの関係は断たれてしまった。
『こころ』の「私」も「K」と合議をすべきだった。その前に「奥さん」と、「お嬢さん」との結婚についての合議が果たされれば、「K」は恋への疑念を膨らませる必要すらなかったかもしれない。「私」と「K」も合議を図れば、最悪の結果にも至らなかったかもしれない。しかし、「K」が自ら命を絶ったことによって合議するチャンスは永遠に喪われてしまった。
こう考えると、いわゆる「近代的自我」や「個人の内面」というのは、他者との合議から逃避することで膨張してきたのかもしれない。(これはなんとなく大きな論になりそうなので、別の記事で考えていきたい)
古典文学は合議の世界
一方、古典文学をひも解けば、和歌というメディアは合議のメディアといっても過言ではない。和歌が生じるということは、そこは他者同士のコミュニケーションが成立しているということだ。『蜻蛉日記』の有名な「町の小路の娘」の章では、藤原道綱母と藤原兼家との冷え切った男女関係が描かれているものの、「嘆きつつ~」という和歌を兼家に送ったところ、兼家からは「げにやげに~」の和歌が返されている。ここでは、和歌を通じた二人のコミュニケーションが成立している。自らに対して酷い仕打ちをしてくる兼家に対して何も言葉を投げかけないという選択は道綱母の中にはなかった。
教員である私たちも、道綱母を見習って、自分が置かれている境遇や、つらい経験、教室の中で起きる煩悶を、同僚や生徒に打ち明けていくべきなのではないだろうか。自らの煩悶をどんどん募らせていってしまえば、やはり豊太郎や「私」のように「自我」を膨張させ、最悪の場合は『こころ』下巻の「私」のように、爆発してしまうかもしれない。
自らの身を守るために、そして生徒とともに教室を動かしていくために、自らの煩悶をアウトプットしていくべきなのではないか。
「制限」によって発露される煩悶
ただ、煩悶を「ありのまま」の形で生徒にぶちまけるわけにはいかない。それは生徒に対する暴力に転換する恐れがあまりにも高く、合議に至らない可能性が高い。道綱母のすごいところは、自らの煩悶をぶちまけるのではなく、平安貴族文化のルール、和歌によるコミュニケーションを遵守した上で展開していくところにある。三十一音というあまりにも少ない音数、掛詞や縁語などの修辞技法というありとあらゆる「制限」の中で、それをやってのけるのだ。というより、制限を設けるからこそ、煩悶の発露に効果を生むのである。
もちろん、これは道綱母だけではない。母である和泉式部に和歌の代作を頼んでいるんだろうと馬鹿にされた小式部内侍が反論に使ったのも和歌だったし、周防内侍が男性貴族の腕枕を一蹴したのも和歌だった。
教員の不安、煩悶を発露させながら生徒と合議を図っていく上では、どんな制限が設けられるべきなのだろうか。それは教員だけが受ける制限なのか、それとも生徒も共に制限を受けていくべきなのか。そもそも、「制限を受ける」ということを学んでいくのが合議というプロセスなのだろうか。次回からは合議を図る上で守らなければならない制限について考えていきたい。